紙面に載せていない、ウェブ版だけの特典ページです。記事に関するフォローだとか、記事の先出し、紹介しきれなかったお手紙や写真、お手紙のカットした部分の全文公開、編集長のつぶやきなども載せていきたいと思います。
これは芸術だ
菱沼俊行76 泉区将監
昔「芸術は爆発だ」という名言がありました。
小雪舞うある日、巨木が立ち並ぶ小径を散歩しました。小径には落ち葉が沢山敷き詰められていて踏みつけるとカサカサと柔らかい音がします。
しばらく歩くと小径は二つに分かれています。階段を下り二つの橋を渡り奥に進むと、工!と目を疑いたくなるような光景を発見しました。発見したと言うよりも、彼に言わせれば、かなり以前からここに鎮座していたよと。自然界にはない光景でしたが、私は即座に「これは芸術だ」と直感しました。拝むような気持ちで手を合せてしまいました。たぶん、その意味で誰かがここに新しい芸術の場を提供してくれたのでしょうと肯定的に捕らえることにしました。
若い方には想像がつかないかもしれませんが、昭和の私には懐かしい、珍しい光景でした、思わずブラボーと声を出しカメラのシャッターを切りました。そこからはカチカチと何かを廻すような音が聞こえ、想像するに電子で光る赤い球の様な物が一本奥の方にありました。確か、昭和四十年代我が家にも彼は来ました。学校から帰ると一時間だけ彼と遊ぶことができました。しかし、当時はまだまだ貴重な存在でしたので後は父親に占有され仕方なく部屋に入り勉強するしかありませんでした。君は、いつまでもここに、最後の最後に欠片に朽ち果てるまで鎮座し、ここを散歩する人に何らかの感動を与えてください、頑張ってくださいと声をかけてその場を立ち去りました。数ヶ月後再び彼のもとを訪れてみました。彼は元気に頑張っていました。柔らかい春の日差しの中で緑のそよ風を浴びながら、それはそれで情緒があると思いました。今回は彼のために物と場所が特定されないよう一部抽象的な表現とさせていただきました。(投稿:2023年4月)
(編集長のつぶやき)気になりますね、なんなんですかね?みなさんは、何だと思われますか?
”平均年齢「90.5歳」 ”
ジミー狩野(牧男)82 カナダ・トロント
私が入居しているトロント日系老齢者施設「モミジ・レジデンス」の最近の状況を訊いてみた。 1992年のモミジ開設以来居住者数は400人を超え、現在151名の入居者がおり、133 室ある部屋は満室状態だ。いつも数百名の方々が部屋の空くのを待っているそうだ。我々夫婦は80歳になったら入居できるようにと、約25年前に入居の申し込みをしておいた。入居できたのは81歳の時だ。
ところで、この施設には100 歳を超えた方々が5名もいて平均年齢は「90.5 歳」になるそうだ。我々夫婦は今年共に83歳になるが、この施設ではまだまだ若年クラス。90歳以上の方々は未だ矍鑠(かくしゃく)としていて、100歳になってもみなさんご自分の身の回りのことは自分でやっているから驚きだ。
この施設では自立した生活の出来る事が入居条件となっている。この施設はオンタリオ州内の同じような自立支援施設と比べ10年以上も差ができているのが「モミジの自慢」で誇りをもっている。常に65名のスタッフが入居者のお世話をしており、250名以上のボランティアスタッフが働いている。これがエンターテイメントやお食事会などがある時はボランティアの数が一挙に増える。
ところで、モミジ入居者に杖の使用者が全体の75%もおり、歩行器使用者数40%、ただし車椅子利用者は2名だけだそうだが、足が悪い方でもとにかく元気だ。これは、毎朝行われる腰掛け体操、転倒防止運動やラジオ体操のおかげかもしれない。様々な足腰を鍛える運動が毎日午前中半強制的に行われているが、これをサボると若いお嬢様たちスタッフから電話でお呼びがかかるのだ。
この他、ウェルネスルームには体を鍛える運動器具が備えられている。冬の期間は広い館内をグルグル歩き回るだけでもいい運動になる。
とにかく、ドクターはじめ常駐の看護師さんや医療スタッフの皆さんのおかげで健康が保たれている。
我々夫婦はこの施設に入居できて、より一層若返った気分で毎日を楽しく過ごしている。
なお、モミジ・レジデンスのサイト・アドレスを貼っておくので参考にご覧ください。
(編集長のつぶやき)モミジレジデンスのことは度々お書きいただいていますが、本当に素晴らしい施設ですね。支えるボランティアの方々の頑張りにも頭が下がります。ボランティアが不足がちの日本が見習いたいところがたくさんあり、いい刺激になります。
2月号の紙面にも掲載しましたが、こちらのクリスマス歌謡コンサートでは演歌や民謡そして日本舞踊など様々なプログラムがあり、圧巻だったのが「さんさ時雨」の日本舞踊だったそうです。とくに「仙台平(せんだいひら)」の袴姿できりりとした舞を披露された舞踊の先生とお弟子さんお二人の舞姿は、感動的で素晴らしかったとか…。仙台平というのは、袴に使う生地としては最高級品なんですよね。祖国や仙台への愛を感じます。ありがとうございます。
また、こちらで活躍されているボランティア・グループのリーダーは、トロント宮城県人会の会長でもあるモガール(旧姓高橋)和子さん。石巻市長面(ながつら)出身の方で、東日本大震災で身内の方を亡くされ実家を津波で流されてしまったそうです。実は、妻の実家がそっち方面で、義母の親戚がたくさんいたりします。何かご縁を感じますね。
お別れカード
吉田千秋92 大阪府豊中市
新聞の投稿に『訃報の手紙』と題したエッセーが載っていた。読み進むと、「前略 私儀○月○日、死去いたしました」と故人本人から友人へ送られた最後の自筆の手紙のことだった。「あっ!私と同じ考えの人がいる」。でも中身の内容がかなり違うと婆さんは思った。
婆さんが『お別れカード』を作ったのは、3年前。婆さんは喪中のハガキが嫌い。自分の言葉で、お別れがしたいと思った。『生前、母がお世話になりました』なんて喪中ハガキを家族から出して欲しくない。自分の言葉で『ありがとう』を言って旅立ちたい。それも、受け取った相手がめそめそするハガキではなく、笑える『ありがとうカード』を作った。そのために、明るく笑える川柳を3句、真っ先に書いた。
仕事熱心な千葉編集長は、即座に「頂戴!」と催促した。まだ婆さんが生きていると言うのに…。婆さんは断り切れず、編集長に『ありがとうカード』を送った。然し紙面に載せるのは、婆さんが旅立った後にと約束。編集長は婆さんとの約束を3年間守っている。でも、婆さんは死にそうでなかなか死なない。もう約束は解禁しても良いように思えた。
時代はすさまじい勢いで変化している。死んでから、見も知らない故人の家族からの喪中ハガキで知らされるより、自分の言葉で、お世話になった人々に『ありがとう』とお別れの挨拶をする方が良いのでは無いだろうか? めそめそする文章ではなく、明るくお別れがしたいと婆さんは想う。その時に、川柳は最適だ。
『ありがとうカード』の文章は、相手によって一人ずつ異なる。受け取った相手は婆さんらしい! と涙を流さず笑ってくれるカードにした。よ〜い万端。婆さんは毎日、死神さんのお迎えを待っている。
(編集長のつぶやき)「そろそろ載せてもいい」みたいなことをおっしゃっていたので、載せちゃいました(笑)。「ありがとうカード」、とても良いアイデア。生き抜いてあの世に行けるのなら、スッキリサッパリお別れを告げて、笑いの一つもプレゼントしたいものです。差し上げたい方がいれば、私も見習って作りたいです。いざとなってからでは、何も出来ませんからねぇ!
空は青いぞ
作詞 小磯清光 作曲 坂部宏子
読者の小磯清光さんの作った歌に、読者の坂部宏子さんが曲を付けてくださいました。
私のファミリーヒストリー
ジミー狩野(牧男) カナダ・トロント
つい最近カナダでは、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終了した。これは鎌倉幕府の2代将軍源頼家を支えた13人の御家人の物語で、鎌倉幕府の最高指導者である執権の北条義時が武士の頂点へと上り詰めるまでの波瀾万丈な鎌倉幕府初期の様子を描いたもの。
じつは、登場人物の中に「狩野家の始祖」が混じっていて、これを知った時は大変に驚いた。その人物は「工藤茂光」という武将で、仙台市出身のハリウッド俳優・米本学仁が演じていた。
数年前、狩野家のルーツに関する資料が、仙台市在住の兄からカナダに送られて来た。兄の狩野栄喜は仙台の銀行を定年退職した後、仙台市立博物館の学芸員となり歴史の研究を続けながらローカル・テレビでは「歴史講座」などを担当していた。その傍ら狩野家の歴史も調べていたらしい。送られてきた書物には、かなり古い狩野家のヒストリーが書かれていた。
「狩野氏(うじ)は古代から安土桃山時代の小田原征伐に至るまで武家として活躍した。末裔は全国に散らばっている。伊豆狩野家、奥州狩野家など、画派の狩野派らはみな工藤茂光の子孫である。」そして、「平安時代末期の武将、豪族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。伊豆の大族にして狩野氏の祖」また狩野の名は、「工藤氏が拠点としていた伊豆国の狩野荘(現在の狩野川上流、太平柿木付近)に由来する。」と書かれてあった。
ところで、カナダに来てから40数年振りに私は初めて訪日した。その時、新婚旅行で行った伊豆半島の思い出の場所を訪れた。「修善寺」から「浄蓮の滝」周辺を何気なく旅したが、まさかその場所にかつて狩野城があり、そこが狩野家の始まりだったと、兄の送ってくれた古文書で知ることになった。「狩野家は伊豆大島を含む伊豆半島のほぼ全域を所領した。」と古文書には書かれていた。古文書を読んで初めて狩野家の歴史を垣間見ることになった。鎌倉時代に書かれたという古文書「吾妻鏡」には歴代狩野家の名前があった。しかし、私は、私の先祖が宮城県栗原市の高清水周辺が発祥の地だと思っていた。
じつは、奥州狩野家が始まったのは、源頼朝の命を受け奥州藤原基衡氏征伐に参戦した工藤茂光の子で名前を狩野に改めた狩野行光だった。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、源頼朝は御家人たちに守護や地頭として所領を与えた。その中に狩野氏が入っていて、現在の宮城県栗原市一迫周辺を所領したと記されていた。 古文書を見ると「狩野行光」が奥州狩野家の始まりであることが解る。
さて、兄が送ってくれた狩野家最古の戸籍謄本を見ると明治四年が一番古い。戸籍謄本は明治時代になってから制定されたようだが、明治になる前の戸籍関係は地元のお寺が管理し、過去帳には御先祖代々の名前などが記載されているという。また宮城県で発行された最近の電話帳を見ると栗原市に1900世帯の狩野家が住んでいる。これを見ても当時奥州狩野家の中心が栗原市周辺だったことが伺える。
しかし、時代の変遷と共に狩野一族も栄枯盛衰を繰り返し時代の波に翻弄されてきた。伊豆狩野家は平安時代から約450年栄華を極めてきたが、同族伊東氏の裏切りによって1497年の北条早雲との戦に敗れ狩野城を明け渡すことになった。しかし、北条早雲の温情を受け狩野一族は小田原に移封されたが、その後豊臣秀吉の小田原攻めで北条家、狩野家共に1590年に滅ぼされ、戦国武将としての伊豆狩野家はここで歴史の檜舞台から消え去って行く。奥州狩野家も、小田原攻めに参戦しなかったことを理由に豊臣秀吉の奥州仕置にあい改易させられるが、伊達政宗の庇護を受けながらも奥州狩野家の家系を何代にもわたって脈々と受け継がれてきた。
ところで、豊臣秀吉の小田原攻めより遡ること150年前の西暦1434年、狩野家の一族に狩野影信という人物が時の将軍足利義教に見出されて颯爽と画壇に登場する。その後、室町幕府の御用絵師となった狩野正信は狩野派の祖となり、元信、永徳、山楽、探幽など多くの絵師たちと共に約4世紀にわたって日本の画壇をリードして来た。武士としての狩野家は途絶えたが、狩野家一族の血は絢爛たる画風と共に今に輝いている。
【ちなみに、狩野正信(学者)とyahoo で検索し出てくるのが私の弟です。】
読者のYouTubeチャンネル
大橋庸晃さん
チャンネル名 「大橋庸晃」
2015年にスタート。アップした動画は300本以上。トータルの視聴回数は堂々の約38万回。緑色のカーテン前で録画を行い、背景を花畑に差し替えるといったプロ並みの映像加工もお手の物。和尚が読経の代わりに吹いた尺八の古典『手向(たむけ)』は、ぜひ見ていただきたい! 呼吸法の解説動画も有り。
坂部宏子さん
チャンネル名 『歌の楽しみ」『讃美の喜び』
毎回12曲ほどの歌を収録して、月2回のペースでユーチューブにアップ。チャンネルは2つあり、1つはラジオ歌謡や昭和の歌謡曲、唱歌などをアップ。もう1つには、讃美歌をアップ。天まで届きそうな美しい坂部さんのソプラノの声、語りかけるような冒頭のあいさつも見どころ。
オタワの奇跡
狩野牧男82 カナダ・トロント
F夫人がモミジ・レジデンスに入居してきた。97歳になられたそうだ。ご主人は20年前に他界され、私はそのご主人と縁あって約50年以上前から氏が亡くなるまでお付き合いをさせていただいた。
先日、モミジ・レジデンス内にある「モミジ・カフェ」で偶然 F夫人にお会いし、しばし昔話に華が咲いた。そのお話の中で、F夫人は「トロントへ来てからどうして主人が急に釣りが好きになったのか未だに不思議です。」と、おっしゃっていた。
じつは、その経緯を私はよく知っている。そのご主人は、50数年前、日本の大手商社「M」のカナダ・トロント本社の社長さんとして赴任された。F氏が魚釣りに興味を持ったのには訳があった。ある日、魚釣りが趣味の私のところに相談に来られ、トロント周辺の釣り場や生息する魚などをいろいろと尋ねられた。じつは、F氏の友人が釣りをしにカナダに来るという。F氏もしばらく友人に同行するので、この際、釣りのことを少し学んでおきたいということだった。私は驚いた。なんとF氏の友人とは、あの著名な作家の開高腱氏だった。開高腱氏は、朝日新聞社の後援で「南北両アメリカ大陸縦断釣行記」を執筆するため、途中カナダに立ち寄ることになったという。私は当時のトロント・プリンスホテルで開高健氏を紹介された。ちょうどオンタリオ州最北端のハドソン湾の近くまで北上するという前の夜だった。
オンタリオ州にはマスキーという獰猛で超巨大な魚が生息している。しかし、滅多に釣れないことから当地の釣り師の間では幻の魚と称されている。開高健氏もやはりこの巨大魚マスキーを釣りにトロントを訪れた。マスキーは、「釣り五千時間、キャスト一万回に一度」釣れるかどうかと、言われるほど難しい魚だ。開高健氏のカナダ滞在期間は約二週間だ。北部オンタリオ州でのマスキー釣りは不調だった。それからオンタリオ州ヒューロン湖のジョージアン・ベイ、セント・ローレンス河のガナノクエとマスキー釣りのメッカを回られた。だが釣りの女神は微笑んではくれなかった。
そして旅程最後の目的地カナダの首都オタワへとやって来た。近代的なオタワの街の中には運河がある。これはオンタリオ湖畔のキングストンからオタワを結ぶ運河だ。正直なところ、運河では船の航行が多くあまり釣りには適さない。しかし開高健氏は敢えてマスキー釣りに挑戦した。
ところが、誰も予想もしなかったその運河でついに念願のマスキーを仕留めた。30ポンド(約14㎏)の大物だ。その時のことを「オタワの奇跡」と称され地元の新聞や雑誌でも紹介された。開高腱氏もその時のことを「オタワの奇跡」として詳しく著書、写真集「もっと遠く!」の中で書いている。
開高腱氏は、キャッチ・アンド・リリース、釣った魚は必ず放流する主義だったが、この時のマスキーだけはこれを曲げて、このマスキーを持ち帰り剥製にして長く書斎の壁に飾っていたそうだ。F氏も開高氏の影響があってか、それ以来釣りの虜になってしまった。
ところで、開高健氏の邸宅は湘南茅ヶ崎にある。余談になるが、私の青春時代は湘南平塚海岸で過ごした。茅ヶ崎は平塚の馬入川(相模川)を挟んで隣町だ。当時私は開高健氏の邸宅の前を何度も通っていてよく知っている。モミジ・カフェでF夫人にお会いし、時間を超えて当時の記憶が走馬灯のように蘇って来た。いつか、ゆっくりとF夫人にご主人が釣りを始められた経緯や「オタワの奇跡」をお話ししたいと思っている。
(編集長のつぶやき)開高健さん、若い頃に『オーパ! 』などを読みました。テレビやCMにもよく出られていた、当時の〝時代の人〟。凄いエピソードですね。
私は1997年10月にオンタリオ湖の東部セント・ローレンス河で、当地釣り師の間では幻の魚と称される巨大魚「マスキー」(和名カワカマス)を釣り上げました。体長145cm、重さ22kgあり、当時(1997年度)北米最大の淡水魚と認定されました。この記録は未だに破られておりません。なお、当地では新聞、雑誌、テレビなどで取り上げられ、日本でも朝日新聞で紹介され、時事通信でも配信され、日本各地の地方新聞などでも紹介されました。(私の生まれ故郷の「大崎タイムス」でもこの巨大魚が紹介されました。)
タクワン貿易
狩野牧男82 カナダ・トロント
みなさんは「タクワン貿易」という言葉をご存知だろうか。 明治、大正、昭和初期、樽詰めにした沢庵(たくわん)を日本からカナダに輸入し、その空樽を利用して塩漬けにした鮭と筋子をカナダから逆に日本へ輸出したそうだ。これを「タクワン貿易」と言う。 その昔、カナダ人はシロザケ(Chum Salmon)を誰も食用とはせず、犬の餌(ドッグサーモン)と称してシロザケは丸ごと全部捨てられていた。それに目をつけ、それを日本へ輸出することを思いついた人物が佐藤惣右衛門と及川甚三郎の両氏だ。彼らは現在の宮城県登米市東和町出身。カナダの日本人移住者仲間では、タクワン貿易で巨万の富を築いた人物として有名だ。
その佐藤惣右衛門氏にまつわる記事が2022年5月13日付けの河北新報に掲載され、仙台市在住で私の知り合いのM氏がわざわざその新聞の切り抜き記事を送ってくれた。 それには、佐藤惣右衛門氏の伝記小説が完成したニュースのほか、パートナーとして事業を展開した及川甚三郎氏の話など、特にフレーザー河のドン島(及川島)やライオン島(佐藤島)など、この話は実に興味深い。彼らは日本人カナダ移民のパイオニアとして現在でもトロント日系文化会館のホールに「日系人カナダ移民のパイオニヤ達」として讃えられ写真やパネルなど移民の歴史と共に展示されている。及甚と呼ばれた及川甚三郎氏が郷里宮城から同胞83名を密航船でカナダへ連れて来た話は新田次郎著の小説「密航船・水安丸」でも有名だ。この時代に活躍した同じ宮城県石巻出身のアラスカのモーゼと称されたフランク安田こと安田恭輔氏のことはきっと彼らも耳にしていたことだろう。この話も新田次郎著の「アラスカ物語」として有名だ。
しかし、太平洋戦争勃発で当時カナダに住んでいた日本人移民は「敵性国民」として排斥され全員カナダ内陸の奥地ゴーストタウンへと連行されてしまった。1942年にカナダ政府は戦時措置法を実施し、敵視された日本人への社会的差別、人種的差別は大変激しく彼らの名声も財産もすべて根こそぎ剥奪されてしまったのだ。 このような艱難辛苦を乗り越えた先人たちの努力のお陰で、現在カナダに住む私たち戦後の日本人移住者たちがカナダで安泰に幸せな生活を送ることが出来る。 日本人移民の活躍を知り日本を後にした者は私一人ではあるまい。
(編集長のつぶやき)私も登米市東和町米谷の出身なんですが、知らないことばかりでした。余談ですが、現在、「不老仙館」という観光施設になっている建物には、筆者が子どもの頃、両親がよく挨拶に行っていました。というのは、二人を結びつけたのがこちらの佐藤家の奥様だったからです。ちぐさ美容院という美容室を営んでいた母に、お客様として来ていらした奥様が父をご紹介してくださったそうです。
なんだ・なるほどクイズ
児玉 悟76 青葉区五橋
クイズです。解答を見て「なんだ・なるほど」と、できなくても笑って楽しみましょう。
①他人の考えの説明を聞き、理解するには、何を食べればいい?
②柔道や剣道などのスポーツをやっている人が好きな果物は?
③移動するお風呂に入る人の職業は?
④部屋の明かりをつけて読む本のジャンルとは?
⑤食べると、糖が直接、腰に影響する食べ物とは?
⑥勝利を収めた人が食べる肉の加工品とは?
⑦医者とヤクザを兼業している人の、もう一つの職業とは?
⑧市町村の首長で、住民の意見を一番大事にする首長は?
⑨掃除をしないという有名なお寺は?
⑩ある数字を書くだけで、合格する試験の数字とは?
解答①納豆(納得→納豆食う)②ブドウ(武道)③バスガイド(ばすが移動)④伝記(電気→明かりをつける)⑤トウモロコシ(糖もろ腰)⑥ウィンナー(ウィナー勝利者)⑦薬剤師(ヤクザ医師)⑧村長(尊重)⑨浅草寺(せん 掃除)⑩5(ごをかく→合格)
時間チケット
児玉 悟74 青葉区五橋
今回は(絵本作家・詩人1946年生)の詩集「しあわせの法則」からです。
人はこの世に生まれてくる時、「時間チケット」を携えてやってくる。それは、この世で生きるための「いのちチケット」。何時間か一か月か、ほんのちょっとだけこの世界を体験しに来た人。あるいは五十年か七十年。でも、人生を生きる「時間チケット」は長ければ長いほど良いわけではありません。短ければ残念、ということでもないのです。それは、各々それぞれの人の魂の計画だからです。この世って所は制限時間があるんだ。一人一人の持ち時間は違うけれどね。その中で各々の人生の課題をやり直すんだ。もし時間が足りなかったら、次の人生でやり残しをやる。もし余ったら…うーん、それもまた問題だなあ、それもまあ 好きにしなさい!
川柳の動画
ちょっと息抜きに…。