東日本大震災の直後の紙面、震災直後に寄せられた川柳、読者からの太平洋戦争に関するお便りなどを掲載しています。

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太平洋戦争

『奇跡の生還』

高橋スマノ 82歳 


シルバーネットの連載期間
2009年2月号~2010年6月号(休載2回)

シルバーネットで大人気となった高橋スマノさんの手記「奇跡の生還」を全文掲載いたします。

長年愛用のチャイナドレスに身を包んでご機嫌のスマノさん (シルバーネット読者の旅行会にて)
最初に自己紹介から

 平成と年号が変わり一月七日即位なされて二十年になりました。産声をあげられた赤ちゃんも成人となられたことでしょう。
 この新しい年を迎えられたのに、寒空の下で職を失い住む家もなく明日をどう生きるべきか希望を無くした多数の方々がおられる事を考えますと、私はあの六十四年前の終戦時の国のやり方にとても似ているような気がするのです。
 その時、私は北朝鮮(羅津)におりました。朝鮮半島北部で一番安全な場所だと言われていたのです。B29爆撃機が二、三機飛んできて港に機雷を落としていくだけした。
 七月頃になると、港には輸送船が多くなり、毎日のように機雷によりドシーと大地を揺るがす大きな音がし、水柱があがると、ボーボーと悲しげな汽笛を鳴らしながら沈んでいくのです。負傷者も多くなり、身近に戦争が近づいてきた感じがしてきました。
 それに関東軍の穴埋めとして、四十五歳までの男の方を召集し、武器の持たない裸の軍隊を作り、父や夫は後ろ髪を引かれる思いで家族の元を離れたのです。女子供、年寄りだけ残されました。
 八月九日早朝、ソ連は条約を破って攻撃をしてきたのです。その時すでに、軍は安全な場所へと何処かへ行ってしまったのです。国民を守る使命を捨てて、丸裸になった弱い人たちを置いて、自分たちだけが安全な場所へ逃げたのです。
 残された日本人は難民となり、体験した人だけが知る辛い辛いこの世の地獄のような日が何日も何日も続いたのです。この後のことは、又の機会に書きたいと思います。

生還の喜び合って六十四年
 腰曲がり、膝痛み
 よくぞ生きてと手を握る  

昭和二十年八月九日、ソ連による条約が破られて羅津の要所要所はすっかり爆撃によって焼失したのです。女、子供、年寄りだけが残され、ガタガタ体が震えるだけでした。
 満鉄病院には負傷した兵隊、船員が運び込まれ、一般の人は退院させられ、医師看護師は大変な忙しさとなりました。私は病院勤務をしていましたが、不明の熱があり留守家族と共に一足早く山の中に避難となり一週間分の食糧と身近な物を持って、また戻って来られるものと思って集合場所へと歩き出したのですが、情勢が変わって帰ることが出来なくなったのです。
 子供が四人いるお母さんは、一人を背負い、二人を両手で握って、一番大きなお兄ちゃん(小五年)に荷物を持たせて、一本の帯のように列からはぐれたら大変、泣く子をなだめながら夜道を歩くのでした。昼は敵の目につくので移動するのは暗くなってからなので子供は眠いし、泣くと「泣かせるなぁ!」と注意されるし、親の方が泣きたい気持だったと思います。私も熱が高くなって意識がもうろうとし、やっとの思いで歩き、前の人が止まるとぶつかってハッと我に返る有様でした。
 朝になって見るとあまり進まず、同じ山をぐるぐる歩いていたようでした。夜になるとよく雨が降り、休む時は枝と枝を結んで少しでも身体を濡らさないように作り、山斜面になるとズルズルと滑り落ちて、子供さんなどは泥で靴が脱げなくなり裸足で歩いていました。
 誰もが疲れ切って物も言わず、泣きながら歩いた声も聞こえなくなりました。三日目には川に出合い、橋もなく水量も多いので男の方が子供から弱った大人まで背負いました。
 山を下り道幅の広い場所になったら、列もバラバラになり、私もとうとう歩けないので道端に休んでおりました。五日目、満鉄の用意したトラックが来て弱った人、子供たちを乗せて目的地の会寧に運んでもらったのです。
 羅津から一〇〇キロ、応召された留守家族が多く、よくぞ歩いたものだと思いました。山の中で死んだ人も、生まれた人もあったそうです。
 

 延々と避難の列は
 泣く子をなだめ
 先の見えない、山道歩く 


 昭和二十年八月九日、北朝鮮(羅津)から五日間山の中を歩き、集合場所会寧に十三日の夕方辿り着いたのです。大勢の人々と無事を喜び合いました。
 機関士さんたちは休む間もなく残っている機関車、客車、貨物車を集めて四本の列車を編成しました。私達病人と子供たちは一番列車にて十四日の夕方出発。貨物車でしたが屋根があったようでした。もう歩くこともないのだと思うと、安心してみんな目を閉じていました。
 八月十五日の昼頃、満州国の最初の図門の駅に到着。真夏のむせ返るような暑さの中、長いこと乗っていたので喉が渇いて水を飲んだり用を足したりして貨物車に戻ったら、「敵機が来たぞー逃げろー」との声が終わらない中、爆弾が貨車に投下。私は鉄の棒で強く頭を殴られたようになり意識を失いました。
 それから何時間過ぎ去ったのか、カチカチとスコップで土を掘っているような音が聞こえてボンヤリと意識がだんだん戻ってきました。苦しくて苦しくて、口からは血がドクドク出るし、動くこともできませんでした。
 「あっ、私は埋められるのだ」と思って、左右が少し動くので力一杯動かしました。
 「おゃ、この人まだ生きているぞ。おい動くなよ、撃たれるから。暗くなったら助けにくるから」と言って、二人の男の方が走り去って行ったのです。
 少しして廻りを見ると、貨車が横倒しになって、その隙間に私がいたのです。そばには首のない人、手足もなく内蔵が飛び出している人、血だらけの人がいっぱい折り重なっていました。負傷者のうめき声、親が子を、子が親を探す叫び声、人の焼け焦げた匂い、硝煙の匂い、此の世の地獄でした。機銃掃射も何度も何度も繰り返されていました。
 日が暮れかかり、敵機も去って静かになりました。着ている衣服は焼け焦げてボロボロに破れ、顔に血がこびりつき、それを金蝿がいっぱい吸いに来てチクチクするのを払う気力も無く、ただ母を呼んでいる私でした。


爆風に たおれし友の 顔蒼く
ただうらめしうらめし戦を憎む


 此の詩は、鹿児島県の同期生が私の姿を見て、何年か後、引揚げてから便りに書かれていたのです。顔蒼くとは、金蝿がたかっていたものだと言われました。  

(前号から続く)長い長い時間が経って、夜空に星が何事もなかったように輝いていました。
 やっと戸板を持って二人の方が来て、「今夜は病院には運べないから」と言って真暗い車倉のような場所に置かれました。外の燈りからぼんやり中の様子が見える位で、負傷者がいっぱいでした。「痛いよう、痛いよう」「助けて、助けて」とうめき声、火のついたような子供の泣き声、気が狂ったように子を探す親の叫び声、夜遅くまで続いていました。
 翌朝、病院に運ばれましたが廊下の片隅まで怪我人で溢れ、医師や看護師さんたちは大変な忙しさで治療に当たっていました。喉が焼け付くように渇き、「水が欲しい、欲しい」と言っていたら、兵隊さんが帽子に汲んで来て飲ませてくださったのです。有り難くて涙が流れ、やっと大声で思い切り泣きました。
 この病院は図們の満鉄病院で一年上の先輩がいるので呼んで欲しいとお願いしたら、忙しいのに来てくれました。すぐ病室に入り体を拭いてもらい、下着から上着まで新しく着替えて、オニギリと味噌汁を出されましたが、まだ腸出血しているので食べられませんでした。
 一泊入院出来るのかと思っていたら、「ソ連戦車隊が近づいているから、時間の余裕がないの、一刻も早く此処を逃げなければ! あんたはまだ軽るい方だから、這ってでも駅に行きなさい。私たちもすぐ後から行くから」と力強く言われ、運動足袋を履かせてもらい、砂糖と水を瓶に入れて小物を入れた鞄を肩にかけられ、杖まで用意して送り出されたのです。
 外に出ると今度は負傷者の行列。足を引きずる人、肩を借りてやっと歩ける人、背負われる人、地べたを這う人、駅へ駅へと向かっていました。私も初めは杖に捉まって歩いていましたが、とても疲れて這っていると、両親の顔が浮かんできました。
 大きな夢を抱いて満州に行くと言った私を許してくれた父、母、此処で死んだら、どんなに悲しむだろう。親不孝者だ。まして敗戦となり夢破れ、異国の地になるなんて、絶対いやだ。死んでなるものかと、自分に言い聞かせながら駅に向かったのです。(又次に)


  (前号から続く)図們の駅に着いた頃は、すっかり日が暮れていました。負傷者の為に新しく
一輌列車が編成されて収容されたのです。
 私はこの四本の列車について、人の運命を考えさせられたのです。羅津(北朝鮮)から五日間、山越え谷越え、川を渡りやっとの思いで会寧に着き、そうして汽車に乗って撫順(満州国)に向かうはずだったのです。
 一番列車に乗った私たちは、ソ連爆撃機の直撃弾により何百人も一瞬に吹き飛ばされました。次に出発した二番列車はソ連爆撃機が飛んでいるのを見て、豆満江鉄橋の手前にあるトンネル内に急停車して難を逃れたとのことです。煙で息が苦しくなると、後ずさりして外に出て、またトンネルに入ることを何度も繰り返し、爆撃の音が収まるのを待っていたそうです。
 二番列車は深夜になって敵機が去ったので図們駅に入ったのですが一番列車の惨状を見てびっくり、後から来た三番列車と早々に発車して満州に入ったのです。
 しかし、四番列車は情勢が悪くなり日本軍によって鉄橋が爆撃されて、人々は鉄橋を歩いて渡り満州の開山屯に出て満州の汽車に乗って後を追ったとのことです。
 最後の四番列車に乗ることの出来ない人もおったのです。山に居て乗り遅れてしまった病人、妊産婦、年寄り、幼い子供を抱いている人たちが疲れ切ってやっと列車乗り場となっていた会寧に到着したのは、列車が発車した二、三日後だったそうです。この人たちは列車の後を追って歩いて何日も何日もかかって満州に入った組もあり、また朝鮮半島を南に下った人、羅津に戻った人、それぞれ地獄の選択だったのです。更に更に苦難の道が続いていました。
 誰が決めたものでもなく、人の運命とは不思議なものだと、つくづく思わせられました。
「神様に聞かないと分からないのですから」。(又次に)


幾度も 死に目に合った この体


 (前号から続く)負傷者は新しく編成された列車に一箇所に集められ、生き残った医師看護師によって治療を受けながら撫順に向かったのです。客車の座席に横になり意識がもうろうとなり呼吸をなんとかしている私でした。先生が時々来て、注射(強心剤)をして下さいました。気温が高いので傷がすぐ化膿して蛆(うじ)がわく状態。体力は衰えてゆくばかりでした。
 喉が渇いて「水が欲しい」とうわ言のように言っていたのでしょうか、中国人のようだったと思いますが、手に水を入れてきて口を潤してくれたのです。あの分厚い大きな手は今でも忘れられません。ありがたくて。多くの人々に助けられながら、夜汽車は走り続けていました。
 何時間経ったのか、停車して「重症者は降ろすから貴女も下りなさい」と言われ、ホームに横になっていました。幸運にもこの駅は吉林だったのです。私が卒業した吉林満鉄病院のある駅で、先生、先輩、同期生が救護班で来ていたのです。
 「死んだと聞いたが生きていたか。良かった、良かった。すぐ病院に連れて行くから、頑張れよ」との言葉を聞いて、嬉しくなり元気が湧いてきました。
 病院に着くと懐かしい総婦長さん、舎監先生、みんなで「よかったね」と運搬車に乗せられ病室に入ったのです。
 それにまだソ連軍に医薬品、医療器具類が押収されずに残っていたので現代のような治療ではないですが、一ヶ月間受けることが出来ました。爆弾によって右膝関節の肉が剥がされ、曲げることも立つことも出来ず、トイレが一番大変でした。重湯をストローで吸って、赤チンの塗布、ガーゼ交換、天気の良い日は傷口を太陽に当てて出来るだけ一人で頑張りました。一日一日と少しずつ治ってゆく傷口を見て、生きられることを実感しました。
 一ヶ月半が経って歩けるようになり、退院して同期生の部屋で生活しながら撫順に行く準備をしていました。その頃からソ連兵が入って来るようになり、種々と難しい事を要求するのをロシア語の堪能な宮澤先生のおかげで難を逃れることが度々でした。だが一ヶ月後には、治安も悪化して吉林を去らねばならなくなったのです。(又次に)
 ※宮澤先生についてはシルバーネット112号に逓信病院の皮膚科でお会いしたことを「六十年目の再会」として書きました。先生は悲しくも二年前に92歳でお亡くなりになりました。  

(前号から続く)吉林満鉄病院に一ヶ月半入院している間に、先に撫順に向かった羅津の人々のことを聞いたり読んだりしたことを書いてみます。
 図們を出発した二番列車が、八月十六日どこか分からない街の郊外に止まった時、中国人の物売りが「日本負けたよ」と言っているのを聞いた日本の軍人さんらしい人が非常に怒って、「日本負けるもんか、叩き切ってやる」と日本刀を振り回して大暴れしたので多くの人々が必死で止めて、大事に至らなかったとの事です。日本は戦争に負けたことが無いのですから、神風が吹いて必ず勝つと教えられ、苦しくても我慢してデマに惑わされず勝つと信じていたのです。
 次の郊外の街を通過した時、線路のそばにある軍の倉庫から中国人が蟻の行列のようになって食物を運び出しているを見て、「やっぱり負けたのかなぁ…」と思ったそうです。
 敦化の駅に停車した時、駅前の広場で日本の兵隊が軍用品を避難民に与えていた時、その場で直接敗戦の事実を聞かされ、薄々は感じていましたが「やっぱり」とショックは大きく、全身の力が抜けたそうです。
 終戦以後は列車のダイヤも乱れ、駅でもない所に止まるので、生理現象するのに大変。隠れる木一本もない荒野で仕方なく汽車の下に入って用を足し、命がけだったのです。その間に食事の用意。石を拾ってかまどを作り、燃えるものを探し、半煮えの鍋を持って汽車に戻ったこともあったそうです。
 このような状態が五、六日続き、八月十九日、一番列車が撫順に到着。次々と二、三番と入ったので、突然の事で撫順は受け入れの準備が出来ず、三日間は駅のホームか列車の中過ごしたのです。撫順は満鉄が経営する石炭の露天掘りで有名です。敗戦国民となった日本人が生き延びるには一番好い場所なので、羅津を先頭に牡丹江ハルピンその他北部地方からどんどん入って来たのです。
 収容されたのは学校、寺院、料亭で、床は固いがやっと手足を伸ばして寝ることが出来、給食も与えられ、これから先は分からないが、今日の心配はしなくて済んだのです。(又次に)


 (前号から続く)吉林満鉄病院を退院して、撫順に着いたのは九月の半ばでした。北国の秋は早く、朝夕涼しく感じさせられ、夏物の衣類だけなので零下二〇度以下になる冬が不安でした。
 東七條小学校に収容され、軍隊の毛布一枚配られ、その晩は板の間に寝ました。ところが、夜中にムヅムヅして痒くて眠れませんでした。朝になって見ると、毛布にシラミがいっぱい発生していたのです。
 撫順満鉄社宅が一軒に一家族の割で避難民を受け入れてくれることになり、多くの家族が収容所を出て行き、冬の心配は無くなったのです。
 私はまだ体が弱っていたので、料亭の畳の部屋に入れてもらいました。そこには前頭部に銃弾があたって骨まで達し、そこから脳の内容物が出たり入ったりするものの、なんとか生きてこられた保健婦さんと保健婦長さんと三人で、ロシヤ兵から身を護るには安全な場所でした。
 それから何日かは落ち着きを取り戻したものの、疲れと飢えと発疹チブスの流行で体力のない小さな子供たちや年寄りが朝目を覚ますと冷たくなっているのです。一日十人、日が経つにつれて多くなり、棺桶の用意も火葬もできなくなり、コモに包んでどこかに運ばれて行くのでした。図們の爆撃で死ななかった人々が、今度は発疹チブスと飢えと寒さで多くの肉親を失っていったのです。
 このような時、中国人が子供を買いに来たのです。「お母さん、子供大切に育てるから、売りなさい」と言って。男の子は六百円、女の子は六百五十円、時計が二百円だったそうです。その頃の時代は子供の数は四、五人が普通でした。
 父親は兵隊に取られ、留守家族が多く、日に日に衰弱していくし、このままではみんな死んでしまう。中国人に渡せば命が助かる、生きていれば何時かは会える、もらったお金で残った子供たちに食べさせるし、十年か二十年我慢すれば必ず会える時が来る。追いつめられた母親の気持、せっぱ詰まった気持が痛いほど分かるだけに、母親を誰も責められないと思いました。
売られゆく我が 子よ生きていてくれ 祈る母親 手を掌す

※発疹チブスで死す。南下した避難の方々は収容所で三千人だったのが半分に減ったそうです。小さい子供だけでなく、大人の人々もなんの治療も受けず家族が次々と死んだのです。ある七人家族は、十二歳の男の子と、外に奉公していたお姉さんが助かり、二人で日本に帰ったそうです。


 (前号から続く)撫順は十月になると夜はとても冷え込むのです。夏服で着の身着のまま逃げてきたのですから売るものはないし、お金もなく、冬の用意をするには少しでも働かねばなりませんでした。
 幼い子供たちも留守家族のお母さんたちも、赤ちゃんを背負ってモンペを履いて首から箱を吊って、街頭で饅頭やお餅を売り歩き、生きるのに一生懸命だったのです。
 羅津鉄道局の社員は炭鉱当局のお陰にて職を得て一日当たり二十円の貸金を貰ってその中から40%を(主が戦争に行っている)留守家族の為に供出して、日本に引き揚げる日まで助け合ったのです。
 私も随分体が良くなったので診療所に勤務しようと思っていた時、羅津満鉄病院の庶務課長さんから「耳鼻科の藤田先生の留守家族の世話をして欲しい」と言われました。藤田先生は、吉林満鉄病院の耳鼻科の医長先生で私が看護婦養成時代の講師だった方です。
 家族が収容されている処に行ってみると、お奥さんは病気で寝ていて四ヶ月位の赤ちゃんがお腹が空いているのでしょう、出ない乳房を吸って泣いているのです。熱があるらしく、咳もひどく喀血もしているのか拭いた紙が散らばっていて、まだ幼い男のお子さんが三人座っておりました(後で知ったのですが、六歳、四歳、二歳、四ヶ月とのことでした)。
 低い声で涙を浮かべ、痩せた手で「スマノさん、よろしくお願いします」と手を握るのです。「ハイ」と言ったものの、どうしたらよいのか。どんなに苦しいだろうに、辛いだろうにと思うと、なんとかしてでも楽にしてあげたい一心でした。
 暫くして女の方が白いお米を持ってきて、「これを煮て重湯は赤ちゃんに、お粥はお奥さんにあげてください。外のお子さんたちには高粱のお粥と乾パンを給食として与えられますから」と言って帰られました。私は赤ちゃんを背負って三人の坊やたちを連れて七輪に火を起こすために外に出たのです。
 奥さんの容体が日に日に悪化していくのをどうすることもできず、三日後に何の治療も受けずに息を引き取ったのです。翌朝、赤ちゃんも後を追うように亡くなりました。
 一番上のお兄ちゃんが窓辺の下に座って「お母さんのバカ、お母さんのバカ、なんで死んでしまうの」と泣きながら言っている姿、外の坊やたちは何があったのか分からず、ただ母親のそばにじっと座っている姿は、今になっても忘れることができません。
 男の方が三人来て、土を掘って薪を積んで焼いたのです。三人の坊やたちは課長さんたちと私がその日の午後、孤児院に連れて行きました。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と泣き叫ぶ声を聞きながら、「元気でネ」と言うのが精一杯で、胸の奥から込み上がる怒りと悲しみが入り混じって後を振り返ることもせず走るようにして帰ったのです。
 平和な時代に生きている人々には、想像もつかない事ばかりです。自分の命さえ明日にはどうなるか分からないのですから、仕方がなかったのです。これも、みんなみんな、戦争のもたらした悲しい出来事の一つなのです。(又、次に)
※藤田先生のご家族のことは昭和六十三年中国地方新聞に中国残留孤児訪日肉親調査として詳しく書かれてありました。

ソ連軍と八路軍

(前号から続く)終戦後、撫順は二週間位は、日本人の警察官によって治安が維持されて穏やかでした。しかし、ソ連軍が進駐して来てからは暴動が発生し、中国人街に近い日本人の家は屋根と壁だけ残して、すべて持ち去られたのです。
 ソ連軍は東洋系で坊主頭で自動小銃を持って歩き、素行が悪く、婦女暴行、強盗、強奪、昼も夜もあちこちで銃声がして、特に夜は気味が悪く、逃げ隠れするのが精一杯でした。
 被害を受けても何処にも訴えることも出来ず、敗戦国家の惨めさをつくづく感じさせられたのです。日本軍は武装解除され、次々とシベリヤに連れて行かれました。
 ソ連軍は戦利品として炭砿設備、病院の医療機器、医薬品、すべて原料となるもの、電力不足が起こる位、石炭はどんどん掘って本国に輸送させ、機関士さんたちの背に銃を突き付けて運転させたのです。今でも思い出すとぞっとします。
 半年位で急にソ連兵が引き揚げて行き、八路軍(※抗日戦争時代の中国共産党軍の名称)が入ってきたのです。粗末な綿の入った軍服で、中には私服を着ていた兵隊さんもいて、これで軍隊かと思うようでした。農民や職のない人を募集して、ソ連軍の払い下げとか旧日本軍の鉄砲で訓練を始めていたそうです。身なりはみすぼらしいけれど規律がきびしく、暴行強奪は一つも起こらなかったのです。(又、次に)
戦わず戦利品だと持ち帰る
※訂正/先月号の「二十円の貸金」は「二十円の賃金」の誤りでした。

 政府軍と捕虜


 (前号から続く)四月ともなると、北満(中国北部)の撫順にも春の風が吹き、花も咲いて待ちに待った春が訪れました。
 零下二十度に下る時もあり、道は雪が踏み固められ凍っているので、ズック靴を履いて診療所に通勤の途中、何度か滑って転びそうになりながら、わずかな賃金を貰って内地に引き揚げる日を楽しみに、みんなで頑張っていたのです。
 商店は日本人から中国人に変わって、物も見違えるほど豊富になり賑わっていました。
 遙か遠くの方で八路軍と政府軍が戦っているらしく(日本の敗戦後、満州は内戦状態)、ドンドンという音とパチパチと小銃の打つ音が聞こえてきますが、よその国の戦争ですからあまに気になりませんでした。
 そんな中、政府軍の勝利となり撫順に進駐してきました。ラッパを吹いてパリッとした立派な軍服を着て、私達の目の前を行進して行くのです。いよいよ中華民国となり、日本人は俘虜の名札を付けて働くことになったのです。
 引揚げの噂は今まで何度もありましたが、政府軍が占領した所から始まるとのことでした。みんな、その日を一日でも早くと待ち望んでいたのです。いよいよ現実となり、撫順に住む人々は日本に持って帰れない衣類や家具を市場に売りに出すので大変賑わいました。
 けれども、両手を上げて喜んでいられなくなったのです。不要な者は早く引き揚げさせ、役に立つ者は残して働かせる、つまり俘虜としてです。
 医師は小児科と婦人科は不要で、その他は全員俘虜に。看護婦は、二十歳前後の健康な人で未婚者が俘虜に。その頃の看護婦は二十四、五歳が多かったので、恋人のいる人は上司に頼んで結婚式を挙げて引揚げて行ったのです。恋人のいなかった私と同期生の4人は、政府軍の部隊から来た人に面接を受けさせられ、一緒に野戦病院に配属されました。仕方ありませんでした。
 思えば、八月十五日に羅津を出発し、山越え、川越え五日間歩き、会寧にやっとたどり着き汽車に乗ってホッとすれば図們の駅でロシヤ軍の爆撃に命を落とし、奇跡的に生き返り、撫順に着き、発疹チブスと飢えと寒さに耐え、引揚げを目前にして又いつ帰られるか分からない俘虜となってしまったのです。
 故郷の父母がどんなにか首を長くして待っているだろうと思うと、悲しくて悲しくて他の4人と無言のまま迎えに来た車に乗ったのでした…。(又、次に)

野戦病院に勤務して

(前々号から続く)二十分ほど走ると、山の麓に兵舎らしい建物が見えて、それがこれから働く野戦病院でした。
 病院長に挨拶するため軍服に着替えさせられて部屋で待っていると、颯爽として軍服の似合った優しそうな方が入ってきて、一言二言話され出て行きました。一変に恐怖心がなくなり、私達は手を取り合って安心して喜び合ったのです。
 案内の女の方が来て、「現在は負傷者も少なく、ガーゼ交換ぐらいです」と話されました。廻りには人影もなく、とても静かなのです。
 奥の部屋の方から香水の臭いがして、支那服を着た若い女性の方が私達を見てオイデオイデと手招きするので行ってみると、ベットがあって、きれいな支那服やら飾物が処せましと掛けてあり、何をする人かなあと不思議でした。
 後で知ったのですが、中国は一夫多妻で軍人も将校になると家族の方を連れて歩くのだそうです。この女性の方は第三夫人(三番目の妻)で、私達に「中国の男性はとても優しいよ。私に仕事しないようにと女中さんまで付けてくれるの。日本の男性、奥さんを叩く」と、拳骨を作って叩く真似をして見せるのです。「貴女たちも中国のお医者さんと結婚しなさいよ」と言われたので、「私達には日本で父親母親が待っているから駄目よ」と言って大笑いしました。
 食事も久し振りで白米と中華料理がたくさん出されましたが、日本に帰れない事を考えると食欲が出ませんでした。兵隊さんたちも廻りの人々も、私たちを大事にしてくれるのです。(又、次に)

俘虜解放

  (前号から続く)中国政府軍の俘虜となり野戦病院勤務して一ヶ月が過ぎた頃、共に俘虜となった外科の田辺先生に呼ばれました。
 「君たちを何とかして此処から出さねばならない。僕達は男だから、どんなことをしても出られるが…、君たちを出すには正当な理由がなければ難しい。
 そのため、まず病人になることで、死なないように注意して食事を減らし体重を減少させなさい。限界を見て僕が診断書を書くから。最初に弱っている後藤(私の旧姓)から実行するように」と言われたのです。その時、私は体重が四十キロ、爆撃にあってから充分な健康体にはなっていませんでした。
 一週間でたちまち痩せ衰え、顔色も悪く時々勤務も休み、とうとう床に着くようになりました。中国の看護婦さんが心配して果物を持ってきて下さるので、有り難く涙が流れました。
 胸部X線写真を撮るからと言われレントゲン室に行くと、日本のような装置ではなく良く写るのか心配でした。
 その日の内に、田辺先生が胸部写真と診断書を持って病院長に説明したのです。「この看護婦は重度な肺結核を罹っているので、仕事はできない」と。
 中国では結核を非常に恐れ嫌っていたので、直ぐ手続をしてここから出します、となったのです。病院長の証明書と退職金三百円を頂き、私は申し訳ないような嬉しいような複雑な気持ちになりました。
 迎えの人が来るまで部屋にいるようにと言われましたが、これから私はどうなるのか、何処に行くのか不安でたまりませんでした。暫くすると、迎えの人が来たからと言われ外に出てみると、なんとびっくり、牡丹江の満鉄に務めている従姉妹の御主人が笑顔で立っているではありませんか。私は狐に包まれた思いでした。
 従姉妹たちは撫順満鉄宿舎に分宿していたので避難民ですが私たちのような生活の苦労はなかったそうです。(又、次に)
◎引揚げて何年か過ぎ、友に再開した時の事です。「レントゲン写真を田辺先生が見て「後藤は肺壊疽になっているから助からないナァ」と言ったので、貴女が出て行ってからみんなで泣いたんだよ。本当にそこにいるのは後藤さんかね」と言って頬をみんなでつねるので痛い痛いと抱き合って泣いたのです。

 引揚げ


 私の体はだいぶ弱っていたため、従姉妹の宿舎で静養しながら引揚許可を待っておりました。私一人で引揚げるのは体力的に難しく、撫順市民の家族に加えてもらいました。持ち帰りが許された物は、現金一人千円、リック一個、両手に持てる物、その他、時計とか細かなものがありました。私は小さなリック一個と退職金の三百円、日本に白砂糖がないと聞いたので母になめさせたくて少々買いました。
 その頃の撫順は物が豊富で、欲しい物は何でも手に入るのです。撫順の家族の方は避難民でないので、長いこと生活していたのを置いて行くのですから、さぞ辛かったと思います。私の荷物に比べて三倍もの大きさがあったので、娘さんの半分を持ってあげました。
 撫順駅からコロ島へと無蓋貨物列車に乗せられ、出発したのは昭和二十一年七月初旬でした。雨が多く床に水が溜まり座ることも出来ず立ち通し、用をするにも一寸の時間だけ、その中、集中豪雨にて鉄橋が流され復旧するまでの生活は言葉にも字にも書けない悲惨な日が一カ月続き、コロ島に着いた時にはすっかり疲れ果て歩くのがやっとで、日本がもうすぐ目の前だというのに命を亡くされる方もおりました。
 日本へ行くために乗った舟は200人ほどが乗れそうなアメリカ軍の上陸舟艇で、舟に乗ってからは日本の管轄下となり世話をして下さる方も日本人なので安心したのか少しずつみんな元気になり、長崎の町灯りが見えた時、「日本だ!日本だ!」と抱き合って喜んでいる引揚げ者の中には日本を初めて見る人もおったのです。
 検疫も無事終わり日本の土に第一歩足をつけた瞬間、全身の血が熱くなるのを感じた事を忘れられません。両腕にヨーチンを塗られ、注射をされ、DDTを頭から足の先まで噴射、真っ白になって目だけキラキラ光っている姿をお互いに笑うだけでした。
 撫順の家族の方ともお別れして、それぞれの列車に乗って故里に向かったのです。東北本線の車窓から景色を見ていると、目頭が熱くなり木々の梢も飛んでいる小鳥達も「お帰りなさい」と言っているように聴こえてくるのでした。
 栗電に乗り換えて親戚の方からおにぎりをもらって涙と共に食べたあの美味しさは、何にもまさる味でした。家に着いた時には日も暮れかかり、秋風が吹いておりました。当時、引揚者の中には家に着いた途端、亡くなる方も居たそうで、やせ細った私の姿を母は心配そうに見つめていました。


枕元此のまま逝くなと母が言う

 「奇跡の生還」を書き終えて 

 私が奇跡の生還を書きたいと思ったのは、戦争体験を記録するとか、何かを教えるとかではありません。
 国民一人ひとりの日本人が、不幸にして第二次世界大戦という悲しい戦争を体験しました。私もその一人で、北朝鮮(羅津)から撫順の途中まで爆撃に遭って一度は死んで運良く生き返り、避難民となり、敗戦国民の惨めさを味わい、捕虜となり、引揚者となり、体験しなければ理解できない事を人間として心の底から、そのまま、ありのまま叫びたかったのです。戦争を知らない人、また忘れようとしている人に目覚めて欲しいと思いながら。
 戦争ほど残酷で悲惨なものはない事を心に刻み、絶対二度とやっていけないことを念じ、多くの同胞が祖国の土を踏むことも出来ず未だに異国の地にて眠っていることを決して忘れてはならないのです。
 シルバーネット一四七号から一六三号まで十五回、無事書き終わったことに対し、感謝しながら終わりと致します。

『中国戦線に往く』

高橋 等 

戦場から持ち帰った唯一のものである水筒を見詰める著者(撮影:平成27年7月9日) 
最初に自己紹介から


私は地域の老人クラブ若葉会(鈴木幹夫会長)に入会し、以来毎月会員に配布される「みやぎシルバーネット」を興味深く有意義に講読し、その中で高橋スマノさんという方の『奇跡の生還』の連載を拝読し、一般邦人と軍人との違いこそあれ、艱難辛苦の途を辿って引揚てきた共通の体験から深く共鳴し、編集長のご配慮により文通ができ、そして感涙の対面となった次第であります。
 さて、私は今から68年前、国難急を告ぐ昭和19年、二度目の赤紙召集令状により中国大陸の戦場の前戦に投入され、阿修羅と化した激戦地で累々たる戦友の屍を踏み越えて、玉と砕けとばかりの死闘の中で、不幸にして自分も敵弾に倒れ瀕死の重傷を負う身となった。その時、微かに目に浮かんだ空は、抜けるように澄み渡り、その紺碧の空を銀色の敵機が戦場の上空を悠々と飛行している光景が朦朧とした霞の目を横切った。
 その時、誰が言うともなく「戦争が終わった」と騒ぎだし、その声が夢、幻のごとく耳に入り、正に青天の霹靂ともいうべき天地動天の出来事が起こった。その日は焼き付くような真夏の8月18日(1945年)だった。
 既に3日前に終戦になったのだが、この戦場では彼我とも激戦が続いていたので終戦とは、勝ったのか、負けたのか判断ができず、そのことを実感するまではかなりの時間を要した。その頃、瀕死の身ながら神仏のご加護によってか、九死に一生の身となり、終戦、絶望、抑留生活を経て、復員船の到来を待ちつつ翌21年、夢にまで見た祖国、日本の国に帰還することができた。そのとき祖国の土に一歩踏み入れた感触は未だ忘れ去ることは出来ない。死ぬまで忘れられないだろう。
 しかし一方では67年間経った今日まで常に脳裡から離れることのできないことは、苛烈な戦場で命をかけて国を護り、郷土を守り、家をまもり、今日の近代日本の礎石となりながら未だ遺骨収拾もされずに異国の星空の下で霊魂が紡徨していることを偲び痛恨の極みでならない。
 運命の定めとはいえ、自分だけが祖国に帰ることができ、今日このような繁栄した近代国家の一員として生きていられるのも亡き戦友のご加護によることの思いから、20余年の歳月をかけ、亡き戦友の墓前を訪れ自筆の「般若心経」を謹写の掛軸にし墓前に唱え慰霊の旅を続け冥福をお祈りしている。長寿の祝い諺の如く、「国寿まだまだ尽せ国の為」の仰せの如く、92才の「国寿」を迎えた今年も慰霊の旅を続ける覚悟で春暖の季節を待つ今日でいる。 

 私は地域の老人クラブ若葉会(鈴木幹夫会長)に入会し、以来毎月会員に配布される「みやぎシルバーネット」を興味深く有意義に講読し、その中で高橋スマノさんという方の『奇跡の生還』の連載を拝読し、一般邦人と軍人との違いこそあれ、艱難辛苦の途を辿って引揚てきた共通の体験から深く共鳴し、編集長のご配慮により文通ができ、そして感涙の対面となった次第であります。
 さて、私は今から68年前、国難急を告ぐ昭和19年、二度目の赤紙召集令状により中国大陸の戦場の前戦に投入され、阿修羅と化した激戦地で累々たる戦友の屍を踏み越えて、玉と砕けとばかりの死闘の中で、不幸にして自分も敵弾に倒れ瀕死の重傷を負う身となった。その時、微かに目に浮かんだ空は、抜けるように澄み渡り、その紺碧の空を銀色の敵機が戦場の上空を悠々と飛行している光景が朦朧とした霞の目を横切った。
 その時、誰が言うともなく「戦争が終わった」と騒ぎだし、その声が夢、幻のごとく耳に入り、正に青天の霹靂ともいうべき天地動天の出来事が起こった。その日は焼き付くような真夏の8月18日(1945年)だった。
 既に3日前に終戦になったのだが、この戦場では彼我とも激戦が続いていたので終戦とは、勝ったのか、負けたのか判断ができず、そのことを実感するまではかなりの時間を要した。その頃、瀕死の身ながら神仏のご加護によってか、九死に一生の身となり、終戦、絶望、抑留生活を経て、復員船の到来を待ちつつ翌21年、夢にまで見た祖国、日本の国に帰還することができた。そのとき祖国の土に一歩踏み入れた感触は未だ忘れ去ることは出来ない。死ぬまで忘れられないだろう。
 しかし一方では67年間経った今日まで常に脳裡から離れることのできないことは、苛烈な戦場で命をかけて国を護り、郷土を守り、家をまもり、今日の近代日本の礎石となりながら未だ遺骨収拾もされずに異国の星空の下で霊魂が紡徨していることを偲び痛恨の極みでならない。
 運命の定めとはいえ、自分だけが祖国に帰ることができ、今日このような繁栄した近代国家の一員として生きていられるのも亡き戦友のご加護によることの思いから、20余年の歳月をかけ、亡き戦友の墓前を訪れ自筆の「般若心経」を謹写の掛軸にし墓前に唱え慰霊の旅を続け冥福をお祈りしている。長寿の祝い諺の如く、「国寿まだまだ尽せ国の為」の仰せの如く、92才の「国寿」を迎えた今年も慰霊の旅を続ける覚悟で春暖の季節を待つ今日でいる。

動員、応召、入隊

私は二度目の召集令状、俗に言う一銭五厘の「赤紙」を手にしたのは、忘れもしない今から68年前、国難急を告ぐ、昭和19年7月5日のことだった。
 それから数日たった7月13日奉公袋を大事に任命地の山形駅に降り立った。その日は山形盆地の夏空が眩しく広がって暑い夕暮れ時だった。駅の改札口を出ると、部隊の腕章を付けた下士官兵5、6名がいて、直ぐ駅前の旅館に案内してくれた。
 旅館には、同僚と思われる数人が同じ部屋だったので話しかけてみたら、明日同じ部隊に入るとのことだった。どこの出身だったか今は、その記憶は定かではない。
 翌朝、部隊から迎えがきて、宿から10数名のものが、歩いて10分位いの距離にある兵舎の営門をくぐった。(当時の兵舎の跡は、現在霞城公園として市民の憩いの場なっている)
 召集は二度目の経験だったから、軍隊とはどんなところであるかは、知っているつもりだったが、再びその集団に入ると異様な緊張感が漂う。前回の入隊は盛岡で郷土部隊編成であったが、今度は、同じ師団管区であるが「どうして自分が山形部隊に動員されたのかな?」と思ったこともあった。
 後で知ったことだが、岩手県出身者が5、6名いたことがわかり、お互い絆を強くした。 

部隊編成

 部隊には召集兵が毎日入隊していて、自分の入隊日は7月11日の最終日だった。午前中に入隊の手続きを終え、午後部隊編成の為、兵舎前の営庭(訓練用に使用する広場)に全員集合、かくして部隊は第47師団歩兵第91連隊第3大陸第11中隊として昭和19年7月15日、3000名の部隊編成を完結した。
 部隊編成後は、戦場へ向かう諸準備に追われてごった返しの毎日が続いた。そのような中でも組織的な軍事行動はなく、時に外出許可もあり数日を過ごした。初めての外出許可の日、市内の目抜き通りにある写真店に立ち寄り、二度と生きて帰るか分からない記念撮影をし、その1枚の写真を郷里の家族宅に送ってもらうことにした。その写真は、自分の無事帰還を待って現存している。 

高橋さんが所属した「歩兵第91連隊 第三大隊 第11中隊」の編成記念に撮られた写真

戦争の諸軍事訓練

 部隊編成も終わり一段落した頃、誰となく私語が出て「我々の部隊は、南方だ、いや大陸だ」などと言っているうちに部隊の移動が始まることになった。
 戦場体制の武器・弾薬・食糧など40キロもある重量の完全軍装に身を固め、炎天下を黙々と北進し、目的地は大石田町の小学校だった。部隊の一日の行軍距離は通常20㎞とされているが、山形から大石田迄の距離は40㎞の道程を一日で踏破した。
 隊員は編成後まだ訓練にも慣れていないこともあり、行軍中、日射病などによる落伍者が出る程だった。
 落伍者は付近の民家に収容されるか又は沿線の鉄道で輸送された。このような事態は内地だから許されることで、戦場ではこのような手段は不可能であり、自滅以外ありえないことである。
 毎日の諸訓練は実戦さながらの厳しい諸行動になり、又、陸上だけでなく、海上訓練のため、酒田港に移動し敵前上陸など熾烈な砲爆下を想定しての厳しい訓練が連日行われた。
 10月に入り、そろそろ秋風も身に感じる頃、秋田県の山野で師団全部隊による訓練の総仕上げともいうべき師団大演習が昼夜一週間行われた。これもって、いよいよ戦場に行くことを誰しもが予測した。
 師団演習も終わり、部隊内ではなんとなく慌ただしさを増していく中で、11月に入って間もなく隊員全員に三日間の帰郷休暇が許可されことになった。
 自分は岩手まで帰るには、当時列車の便も悪く自宅には一晩泊まりだけとなったが、これで家族と永久の別れとなるかと思うと胸に熱く込み上げてくるものがあった。いよいよ帰隊すべく駅の待合室で列車を待っていると、親戚の若者が急いで電報を手にして渡された。
 電報の内容は「直ちに帰隊せよ」とのことだった。休暇後の戦地派遣は誰もが予測していたことで、いよいよこれで部隊に出動命令が下されるという実感があった。

 戦地派遣出陣

 いよいよ出動命令により戦地派遣となり、昭和19年11月25日夕刻、近くの女学校校庭に部隊600名が集合し出陣式が行われた。馬上の勇姿、大隊長から「わが部隊は、命によりこれより戦場に向かって出発する」とい凛々しい声の訓示があった。
 その後、部隊は直ちに近くの大石田駅から軍用列車に乗り込み、誰一人として見送るものもないホームを後に列車は大石田駅を離れた。軍の行動は防牒上から全く秘匿とされ、車窓は全て鎧戸閉鎖され、列車はどこを進行しているのか皆目分からない。時々大きな駅での停車があったが、ホームには憲兵が目を光らせているので降りることもできなかった。
 各兵の携行品が多くて四人の座席は身動きもできない状態で、時間が経つにつれて尻が痛くなる。やがて夜も更ける頃、車輌のコトン、コトンという響を子守唄に、懐かしい故郷の山河を夢に見ながら疲れと共に各自眠りにつく。列車の進行状況から判断して、大石田から新庄、鶴岡、新瀉と北陸本線経由で進行しているように思われた。
 そして列車は翌日の夕刻、下関に着いた。大石田を出発した時は寒かったが、下関はさすがに暖かい。街はなぜか異国のような冷たさを覚えている。ここで兵器の一部交換などがあり、一夜を明かし、翌早朝下関埠頭から関釜連絡船興安丸に乗船し、二度と祖国の土を踏むことは無いだろうと郷愁の念にかられながら下関港を後にした。
 船内では救命胴衣を着け、緊急避難訓練。玄界灘の浪に激しく揺れ、ゲッゲッと船酔い者が続出。甲板上では遙か洋上に駆逐艦の護衛が望見された。下関、釜山間は通常6時間くらいかかるところ、敵潜水艦の攻撃を避けるためジグザグ蛇行しながらの航行で10時間も要して、その日の夕暮、無事に釜山埠頭の岸壁に着いた。 

大陸輸送

 輸送船の興女丸が敵潜水艦の攻撃を避けながら玄界灘の航海を無事に乗り切り釜山港に着き、直ちに上陸開始。休息の暇も無く徒歩行軍で釜山郊外にある仮兵舎に一時駐留。先着の部隊の兵隊が溢れゴッタ返しの状態、前途の輸送輻湊の為、数日間滞在、この間、実戦に直面した厳しい訓練に励む。初めて目にした山野は赤土に覆われ、異国情緒さながらの風情が印象的に残っている。
 早朝、仮兵舎から釜山駅へ。ここで有蓋貨車に乗り込み出発。一両に60名単位、全く馬同様の輸送、大陸の鉄道は内地と異なり広軌だから車輌も大きい。貨車には兵隊の外に兵器などの梱包荷物を積み込み、車内は益々狭く寿司詰め状態。貨車の両側の扉は開放され、転落防止の為、横に木戸を張り安全対策を講じている。
 食事は、停車駅で大きな食缶が積み込まれ、それを当番兵が各自の飯盒に分配、空缶は次の停車駅で返却。就寝には大変苦労する。狭い車内だから行儀よく頭を並べて寝るのは無理。頭と足を交互にし、相手の足を抱きかかえて顔を蹴られないようにしているが、それでも一夜に何回か顔を蹴られることもあった。
 列車は昼夜の別なく一路、朝鮮半島北上。鮮、満国境の新義州を深夜通過、順調に進行していたが、中国領土に入ってから敵機の来襲が激しくなり列車は夜間運行となった。
 車内では、お互い黙して多く語らず、戦闘要員として戦場に向かっていることは、誰しもが思っているが、その戦場はどこか、そして戦況など一切分からないが、緊張感が漲り、重苦しい雰囲気に包まれ、嵐の前の静けさ同然。列車は途中大きな駅に停車。深夜の霧の立ちこめる構内で、機関車が白い蒸気を噴いて休息している姿が望見され、その光景が、なんとなく冷たく空しく感じられた。 列車は朝方になって再び動き出し順調な運行だったが、途中の大きな駅に停車。ここで全員下車、釜山以来の下車、窮屈な貨車輸送から解放され一息入れる。ここは北支の荒野の砂漠地帯で黄塵が逆巻き、地平線の遙か彼方に真っ赤な夕陽が沈み、大陸特有の様相を呈している。駅舎はその原野の中にあり、事務連絡の為、駅舎に行ったら、日本人と思われる中年の女性が執務中だった。市内は駅から離れ、中国特有の城壁に囲まれた街になっている。その市内の建物の一角が仮兵舎となり暫く駐留する。季節は厳寒の一月、井戸は一ヶ所のみ、周囲は跳ね水で凍りつき水の吸い上げに一苦労する。城内は中国人による保安隊が組織され治安が維持されている。数日経って部隊は出発することになり、再び貨車に乗り込む。前途の黄河の鉄橋が破壊され、その修復のため輸送が渋滞していたことを知る。その頃、列車は敵機の襲来が烈しくなり、夜間運行したり、昼間は大きな駅で退避しながらも揚子江沿岸、中支最大の都市漢口に到着。渡河しなければならないが、鉄橋もなく河巾2000米もあるところ小さな渡河船に分乗して渡る。河の中央は水の流れも荒く危険が多かった。無事渡河し対岸を望見したら、トラックの走っているのが豆自動車のように小さく見えた。いかに揚子江が広いか想像できる。
 その先にあった街は、武漢三鎮として中国では有数の都市、漢口、武昌、漢陽の三都市で繁栄している街で、日本の弘法大師の修行したというゆかりのある寺院、宝通寺であるという。山頂には日本なら旧帝国大学に匹敵する有名な武漢大学があり、軍の司令部が置かれている。
ここで弾薬、糧抹を受け戦場行きの態勢を整えて徒歩行軍。この地、武昌駅の起点となっている線路は破壊され鉄道輸送はできない。総ての部隊は徒歩で戦場に向かう。わが中隊200名は命により部隊の先遣隊となり先発。敵状地区で敵襲を警戒しての行軍が続く。
 出発して数日の間は昼間行軍で夕刻になって宿営地を探し、携行している天幕を張って夜営、炊事での苦労は燃料、どうにか食事が終わると明日の炊事準備、ボヤボヤしていると休眠時間が無くなる。
 この間、衛兵としての不寝番もあり、また足にできた豆の手当もひと仕事。この処置をしておかなければ翌朝は歩けない。処置といっても自分で縫糸に針をつけ、その糸をヨーケンにひたし、水ぶくれになっている患部に針糸を通して、その糸の端を切って、豆の中に残しておく、その糸を通すときは、爛れた皮膚にヨーケンが滲り飛び上がるほど痛いが、この手当をしておくことも重要な仕事。翌朝になってグッと楽になり、行軍ができるようになる。
 その頃の季節は、二月・三月の厳冬の時期、小雪が残り凍って地面は滑りやすい悪路、給食の粗悪、空襲の危険を避けて連日の行軍で極めて苦難の道程を前戦へ前戦へと急ぐ。我々歩兵は敵の一線に出て戦うことが任務だから、即戦の装備で背襄(リュック)の重さは容赦なく肩に食い込み、喉がカラカラ、眩暈がする。それでも歯を食いしばっての行軍続行。
 徒歩行軍数日経って中国最大の湖、洞庭湖畔に着く、近くに大きな駅があったが、駅構内は総て破壊され駅の面影は残っていない。これから先は、ゲリラの出没などで情況が悪い地域に入るから、日没を待って夜行軍に入る。途中戦火を交えることなく湖南省最大の都市長沙の街を通過、次の目的地に向かって前進、ここで後続通過部隊の物資補給任務を命ぜられ滞在。連絡所開設し物資の調達等の任につき、一ヶ月程経っていよいよ戦場に向かっての前進。
 当時、我々の部隊は内地から派遣された最新鋭部隊であるということから、敵のスパイから狙われ、日本兵を拉致すると莫大な賞金がもらえるということが情報として流れ、部隊の行動、周囲の警戒を厳重にする。
 連絡所開設任務のとき、野戦郵便局の開設もあり、故郷への便り、又送金などもできたから、この先はお金も使うこともないだろうから、残すこともないと思い全額送金、便りも出したが、復員後に判ったことだが一切届いていなかった。お金や便りが着いていなくても、自分が生きて帰還したことで良いではないかと家族と語り合う。
 それから10年の歳月が流れた後、鹿児島郵便局から突然、戦地から最後の送金したお金が届き吃驚した。
 これは、当時終戦後、資産凍結令が出されたことによるもので、それが解除になり送金されてきたことが判った。当時の私の月給に比べたら格段少ないお金であったが、現在も記念にと大切に保管している。
 我ら兵は、戦況はどのように展開されているか知る由もなく、ただただ管命令に従い遮二無二と前線へ進撃してゆくだけだった。途中、道路は寸断され、暗夜、道なき道を進み尖兵隊は道路を間違うこともあった。大陸の闇夜の暗さは、墨を流したように一寸先も見えない。行軍中、前の兵の鉄兜に顔をぶつけてハッと気がつく有り様。敵地区ながら順調に行軍を続けていたが、夜明け近く、突然闇をつんざく銃声が聞こえてきた。暗夜で付近の地形はよく分からないが、味方の応戦により間もなく敵の銃声が止み、元の静けさを取り戻す。わが方、被害も無く無事だった。この戦闘が最初の戦いだった。
 夜行軍の疲れと先刻の戦闘の緊張感もあったが、誰かが今日は4月1日、小学校の入学式だったという。月日の感覚など全くなかったが、思えば自分も母が作ってくれた紺絣の着物に真新しい肩掛カバン、帽子という当時の面影を思い浮かべる。先刻の最初の戦闘となったことと、小学校入学日が重なったこと生涯忘れられない記念日になるだろう。
 その後、ゲリラによる散発的な挑戦があったが応戦することなく前進、間もなく集落に入り、その郊外の民家に滞在す。家族は好意的で何事も協力的だった。こちらも敵地区であることから警戒しながら家族をよく活用した。
 ある日、夜中に家族が何か騒ぎ出したので話を聞くと、小輩が腹痛のような症状で苦しんでいるとのこと。わが方の衛生兵が薬を与えたところ朝方になって治ったとのことで「大人多謝多謝」と感謝の言葉。間もなく後続部隊の到着合流を待って前線へと進む。
 これからの前途は総て敵の地区内で、前線へ急ぐ各部隊が輻輳し、さながら兵隊の洪水の様相を呈し戦力の強さを感じた。 

戦場

 戦場は100㎞圏内にも及び敵は1000m級の山脈を防御にその前方いたる処に散開しての応戦。重い背嚢(リュック)は一定の場所に残置し、銃火器・弾薬のみの身軽になり前進。山あいの道路は石畳の一本道で、軍靴の音が周囲に響き敵に察知され、前方の三角山から一斉に射撃、銃火が吹く。この三角山を確保しなければ部隊の前進ができない。わが方の尖兵隊から斬り込みの決死隊により突撃敢行。敵陣地を突破して前進、夜間行動には同志撃を避ける軍用語として、合言葉が用いられる。その時のわが隊の合言葉は「さる(猿)」と決められ「申」は、私の生まれ年、覚えやすく都合良かった。闇夜での戦闘は敵味方入り乱れて白兵戦(※刀剣などの近接戦闘用の武器を用いた戦闘のこと)となることが戦場の通例、その為の合言葉は重要な役目を果たす。
 軍靴の響きを消すため靴に荒縄を巻いて前進。行動秘匿のため夜間行動、谷間を抜けたり、斜面を登ったり、道なき道を粛々と敵陣地に肉迫、一挙に突撃を決行。敵は遺体、武器、弾薬、食糧を残したまま総退却。
 しかし、夜明けと共に陣地奪回の襲撃攻撃は必至。防戦の為、一帯に兵の展開配備につく。昨夜の激闘がまるで嘘のような静かな朝を迎える。しかしその静けさも束の間、予期した通り、敵は正面前方から迫撃砲の援護の下に盛んな攻撃が始まった。
 加えて空からの援軍で、敵爆撃機の低飛行で猛爆弾を加えてきた。弾丸は耳をつんざく大音響とともに至るところで炸裂。敵歩兵部隊は我が方の左手が少数と見て、そこを奪回しようと猛攻撃。敵兵はわが陣地の真下の斜面を登って肉迫してくる。わが機関銃隊はこの敵に一斉に砲火を浴びせ撃退。敵の遺棄死体相当数、目に映じた。
 敵はこの激戦に怯むことなく、後方の陣地から重火器による砲撃は益々熾烈を極め、戦場は阿修羅と化し、戦死、戦傷者続出。附近一帯は阿鼻叫喚、地獄谷と化し、戦列は混乱状態に陥り、その時、自分は累々たる戦友の屍を踏み越えての突撃。肉弾戦、白兵戦中、敵砲弾が側近で炸裂、その爆風の土砂に埋まり、生き埋めになり、片足だけが地面から露出しているのを戦友から救い出され、右腕盲貫(銃弾が身体を貫かず、体内にとどまっている傷)重傷、出血多量、木の枝を副木に代用で応急手当。後方の谷間に負傷者一時収容、敵はわが陣地を突破しようと執拗に前進し、接近して手榴弾の投擲で肉迫してくる。わが方、これに応戦、敵味方入り乱れての熾烈な攻防戦を極め地獄谷と化す。
 時間の経過などの意識が無くなり、昨夜から生か死を彷徨い、やがて夕闇が迫る頃、あれほど敵味方激戦した戦場の銃火も次第に遠ざかり、不気味な静寂さが漂う。数時間の死闘の中で精神撹乱状態に陥ったが、今夜この戦線を死守しなければならないことから緊張感がみなぎり、敵の再攻撃も予想される現況から戦列を整え配備につく。
 戦場のあちこちで敵味方も判らない負傷者、呻き声がする。味方にも相当の戦傷者が出たと思うが、兵は散開しているので生死の確認はできない有様。わが陣地まで肉迫してきた敵の遺棄死体が斜面の随所に転がっているのが散見される。夜に入り、敵の銃声もなくなった頃、部隊は戦場から移動することになり、味方の戦線を整理し、お互い密かに声をかけ合い暗夜の山を移動する。
 翌朝になって負傷者は仮手当を受けた後、部隊から離れ、輸送隊に加わり後方の野戦病院に収容される。(自分はここで本隊から離れることになるが、ここ数日間における、あの極限状態になった悲惨な戦場の状況を綴るとき、73年前に思いをいたし、胸の詰まる思いがして筆舌に尽くしがたく、私の表現力ではこれ以上できないのが歯がゆく思い残念でならない。)
 負傷者輸送隊に加わり後方に向かう途中、山道の脇に重傷者急造の担架に横たわり、うめき声を上げて苦しんでいるのに比べ、自分は同じ負傷兵ながら独歩できることは、神の救いでもあったと祈りたい気持だった。 途中、突然左手の山の上から闇をつんざく敵の銃声が聞こえてきた。明け方まで歩き、途中、道路脇の二階建の大きな建物に収容される。ここは戦場近くの野戦病院だというが、建物は廃屋同然、負傷者が土間にゴロゴロ寝かされて呻き声を洩らしている。衛生兵が忙しく動いているが、独歩者の自分達は二階に収容されただけでなんの手当もない。数日経ってから自分は軍医の執刀により負傷した右腕盲貫の患部から砲弾破出の摘出を受ける。傷口は受傷してから数日経っているので、破片は肉に食い込んでいる。手術といっても、なんら注射することもなく傷口をメスで十文字に切開し肉に食い込んでいる破片を釘抜きのような器具でグイグイと破片を引っ張る。中から小指の先程の黒い破片が肉をからんだまま抜けてきた。痛いも通り越し失神、意識を失う。その外の破片も取ったかどうか分からない。その後、傷が化膿の繰り返しでなかなか治り難く、祖国に帰ってからも暫く治療を要した。
 その日の夕方になって再びそこを出発して歩く、その道はなんとなく先に戦場に向かって前進したときの道を戻っているような感じがする。一晩中歩き朝方着いたところは野戦病院。
 ここも病院といっても名ばかりで傷病兵がアンペラの上にゴロゴロと寝かされているだけである。季節は5月、祖国では気温の一番良い頃、ここは早や夏で院内は異様な臭気が漂う。傷病兵の傷口には蝿やウジがついているが、これを自分の手で追い払うこともできない重傷兵ばかりで悲惨な状況であった。
 ここは山の中腹にあって、その上の方は木も生えてなく野原。天気の良い日などはこの病院にいたたまれず丘に登って過ごすことが多かった。山頂からの展望も良く、下の方には大きなクリークがあり、食事の準備は各自やらなければならない。歩けるもの同志がクリークの濁った水で飯ごう炊飯、自分の傷は瀕死の重傷者に比べると軽傷者として扱われ、何の手当も無し。傷は腐って悪臭がする。自分の肉体の腐敗した臭を嗅いだのは初めてであるが、戦死又は死を彷徨っている戦友のことを思うと天命と思い感謝の念で胸が込み上げる。
 暫く歩き深夜の頃、丁度月の明かりで周囲の兵隊の顔が差別できる夜だった。その時、道がT字路に差し掛かった時、前方の道を進んできた隊列があった。自分達の隊列はここで立ち止まり、引率者がその通過部隊と連絡を取り合ったところ、神の恵みか、その隊列はわが原隊であることが判り、自分は引率者から原隊復帰を命ぜられ、行軍序列に加わった。
 原隊の隊長外戦友の生き残り同志がお互い無事であることを喜び合った。この時は、本当に神に祈りたい気持だった。兵隊は原隊から離れること程淋しいことはない。それは、家族同然の絆に結ばれているからだ。
 しかし、内地から戦場まで友情を共にしてきた多くの戦友が異国の土と化したことは悲痛の極みであった。原隊復帰して、原隊から別れた後の戦況を聞く余裕も無かった。
 ここで数日過ごし独歩できる者だけが移動することになり、原隊復帰者として引率者に従い夕暮を待って病院を後にした。
 部隊は別の作戦命令により戦線から反転し転進してきたという。みんな黙々と歩くのみ、途中数日歩き宿営することになった処は、往路戦場に向かう折、滞在した部落だった。この地で後続部隊通過の援護の任務につき、陣地構築、敵の追撃の追撃に備え、暫くの間駐屯する。反転途中、どうして陣地構築など必要なのか疑問もあったが、我れわれ兵に分かることは自分に与えられた任務だけだった。
 自分はその頃、まだ腕の負傷が治らないので、陣地構築の作業などできないため、夜間、歩哨(軍隊で、警戒・監視の任に当たること)の分哨の役につくことになった。この地区には、どこの部隊がどのくらい駐留しているのか知る由もなかったが、軍公路の近くにが輜重隊(兵站を主に担当する日本陸軍の後方支援兵科の一種)が車馬を伴い駐留していた。自分達が分哨要因として5~6名の兵が毎日夕暮れどき、部隊の駐留地区から前方の山を越えた小高い山の稜線で任務につく。分哨は敵の襲撃から後方にいる部隊を死守する任務、いわば捨て石同然である。この地区でゲリラの出没もあり、立哨中(任務中)、特に警戒を厳にする。部隊は毎日陣地づくりで、前方の山あいから攻めてくる敵を標的にトーチカをつくり、一方では、先の戦場での経験を生かし蛸壺堀など、必死になって敵の襲撃に備える。 その任務も交代の部隊に引継ぎ、その後、先に戦場に向かって前進した同じ道路を逆進の行軍、途中大きな街に着く。その頃、誰言うともなく、「戦争が終わったそうだ」ということを知り、真偽の程はわからないが、軍隊の組織、規律は厳然と維持されていた。部隊から何らそのような正式な話しも無かったので、本当に戦争が終わったのか、又戦争とはどんなことか、勝ったのか、負けたのか、それを理解するまではかなりの空間があった。戦場ではまだ敵味方が激戦を続けて、われわれは戦に負けたとは思わないからだった。
 しばらくして終戦が真実であることを知り、正に青天の霹靂ともいうべき出来事で、虚脱状態、放心状態に陥った。その後、部隊は武昌地区集結を命じられ、350Kの道程を敵の襲撃もなく白昼堂々と行軍を続け目的地に着く。ここで中国軍から鉄道沿線、駅、地区警備の命令を受ける。 当時の中国軍の組織について書いておこう。自分達と戦った軍隊は、蒋介石の率いる中国で最も優勢な軍隊で、政府軍とか中央軍と称していた。一方、終戦と共に台頭してきた軍隊、現在中国と支配している共産軍、その外に軍事力の弱い軍隊の新四軍など、日本の戦国時代の信長、家康、豊臣などと同じく国盗り争いの軍隊がいて、国内戦争となり、その為、我々日本軍は、昨日の敵は今日の友として蒋介石軍と共に共産軍との争いになった。この争いに巻き込まれ終戦後日本軍に多大な犠牲者が出た部隊もあった。自分達は駅舎及び沿線の警備で、そのような戦闘行為は無かったことは幸いだった。
 自分は15名の兵と共に武昌駅から20キロも離れている小さな駅の警備の任を受け出発。少数の兵員で共産軍の襲撃を受けたら全員玉砕の戦死の覚悟だった。警備につく屯所(兵隊の駐在所)は駅から数百㍍の線路の側にある建物での起居。駅にあいさつに行ったら、駅員5~6名全員内地の国鉄職員が派遣されて占領地の鉄道を運営しているとのこと。食料品には不自由することない、戦場で苦労されてきただろうから何でも欲しいものを持って行けと食料品からタバコなど山程もらうことができ隊員みんな大喜び。駅員の語るところによると、住民が汽車に乗るときの切符代は現金でなく、物品や動物(ニワトリ、アヒル)などの物納で乗車できる。どこまでいくらということなく、野菜、タマゴ、ニワトリで乗車できるという。駅ではこの物納品を市場で現金に交換して精算するという経営だった。
 自分達は、ここの任務を三ヶ月程で中国軍に引継ぎ原隊に復帰した。その引継ぎで別れのさい、中国軍の隊長から豚一頭進上(頂戴)した。当時現地で豚一頭の値段はとても高価なものであった。部隊に復帰、この豚一頭をお土産に持参したら、みんな大喜び。多謝多謝の連発。ここで部隊は武装解除、兵器一切を中国軍に引き渡す。後日知ったことだが、兵器引き渡しのさい、我が軍200名単位に小銃数丁保持することを許可されている。これは部隊の自衛手段としての配慮であった。ここで部隊は暫く原野に幕舎設営し別命を待つ。原野だと思っていたところ、この区域一帯は墓地であった。  
 墓地と言っても日本のように石碑が建っている訳でもなく、ところどころ土饅頭型になっていて一面草が生えていた。最初は何も分からなかったが、後になってここは墓地だと知り、なんとなく気味が悪かったが集団生活で馴れると、自分が生きる事が先で、なんとも感じなくなった。
 そのような生活の中で、病人の発生が多くなった。マラリヤによる高熱、下痢による脱水状態になるもの、そのうち自分もその一人で高熱が出て日夜苦しんだが、常日頃親しくしていた戦友が飯盒に汲んできてくれた濁り水で二日間ほど頭を冷やしたら、徐々に快方に向かった。この時は墓地の上に起居し、佛を粗末にしたたたりかと思った。
 ここで戦友の一人が亡くなり、祖国からはるばる海を渡り、戦場で勇戦した友が再び祖国の土を踏むこともなく異国の人となったことは悲痛の極みで、ご冥福をお祈り申し上げる。
 ここでの日課は使役に出る者以外は、何もなすことのない毎日だった。ある日、自分は駅に連絡の命を受け行ったとき、偶然にも駅構内を歩いている同郷の駅員と会う。長話も出来なかったが、彼は国鉄から派遣されてきているという。お互いに先に帰った方が家族に知らせることを約束し合って別れた。彼は鉄道隊だから一番最後の帰還になるだろうと覚悟していたが、やはり自分より1カ月遅れて引き揚げている。
 この頃、中国軍編入となる日本兵の募集があり、二階級進級で優遇するということから我が分隊の古兵(ふるつわもの)が応募して去って行った。後日、彼は部隊に戻ってきたのだが、当時の心境について復員数年後の戦友会で、「故郷の釜石は当時、艦砲射撃により街は全滅し何も無いとの噂を耳にしたので、祖国に帰ることを断念して応募したが、言葉が日常の障害になり残留を断念し部隊に復帰することにした」と語っている。部隊に帰る際、中国軍から日本軍人である通行証明書をもらい、途中三カ所の検問を受けながら部隊に無事到着した。当時、彼と一緒だった元日本の特殊機関だったというものが、中国に永く住んでいるので中国人の女性と結婚して子供もいるから、妻子のいる南京に永住するんだと言っていたという。
 現地における、中国、蒋介石の中央軍と終戦処理について、支那派遣軍総司令の総参謀副長が、先に共に戦った『シ江(しこう)』の街で中国側と会談を行い、武器引き渡し、捕虜釈放などに調印している。その際、中央軍側から「中央軍以外(八路軍・新四軍)には武器を引き渡さないことなどを語ったと言われている。
 終戦降伏調印の場所となったシ江の街は、敵味方死闘を繰り返し攻撃目標だったところで、皮肉の至りである。またこの調停の際、「暴を以て暴に報ゆるなかれし」というのが蒋介石総統の方針だったと述べている。こうした経緯から我々は復員へと道を歩むことになった。
 ここで蒋介石総統について附記すると、蒋介石総統は、日本で軍事教育を受けている知日派といわれ、日本軍及び在留邦人は全部日本に送還する。それに損害賠償などは求めないという寛大な措置を取られたと聞く。当時、中国各地に軍人、邦人合わせて二百万人余りもいたという。これらの人員を輸送する船は日本には無くアメリカの軍船に頼る外ない。
 武装解除のことは、先に記述した通りであるが、軍人として魂を手放しするのだから、ここで初めて敗戦という実感になった。しかし、武装解除になって戦闘能力が無くなっても、部隊の組織は厳として保持されていた。中国側からは捕虜としての扱いではなく、徒手官兵(兵器のない軍人)としての扱いだった。
 ここに軍旗について述べることにします。軍旗(歩兵3000名単位の連隊旗)は、その初代連隊長が宮中に参内して、天皇陛下から「軍旗下賜」の勅語と共に下賜されるもので、連隊はこの御旗を天皇の身代わり旗として崇め、連隊旗手(連隊中から選抜された少尉)の外に護衛の一個小隊(60名位)を付し、連隊長と共に行動するものである。
 このように軍旗は連隊の将兵にとっては、絶対神聖なもので、その団結と志気との要であり、「この御旗の下で戦う」という精神面の主役的役割を果たしてきたのであるが、終戦と共にこの軍旗は奉焼され、悠久に消滅し去ったのである。しかし、我々は軍旗が消滅しても軍の統帥組織の継続を保持しつつ最後まで粛々と行動し続けた。
 やがて部隊は越冬のため、武昌から南方90キロ離れた揚子江下流の沿岸の街に移動。民家の点在する集落の農家に分散宿営することになった。その農家に割当の兵員は大小の家によって人員が割り当てられ、自分達の割り当てられた家は大きく15名だった。 その家の入口の土間が、我々の起居する場所。そこには、夜になると水牛、豚、鶏、アヒルなどが集まってきて同居する。ある時の夜、電気などないから暗い入口で何かの物体にぶつかったので手で触ってみたら、なんと水牛の尻だった。
 部隊は堂々の行進でこの集落に入るとき、住民が大勢集まり部隊の行進を珍しそうに眺めていた。中には兵隊の携帯品の雑嚢(雑多なものを入れる袋)とか水筒などを手で触ってみるものもいた。
 自分はここで中隊(200名)の炊事係に配置され、炊事場は集落の中央広場に設けられ、そこに天幕を張っての起居。糧抹係が食糧の材料調達に奔走し苦慮されていた。
 満足できるほどではないが、中隊の食糧は確保された。日課としては特別ないので、農家の手伝いの要請により農作業に従事。兵隊の宿営していない遠くの部落の親戚などから依頼がきて、出稼ぎに行くこともあった。
 手伝いに賃金はないが、食事だけはいただけるので皆んな喜んで参加した。仕事をする場合、日本人はその性格から、サァやろうと言ってサッサとやって、サァ一服だと時間を取って休むという習慣があるが、中国人はこの一休みということは能率の低下だと言って極度に嫌う。最初はそんなこと分からず、日本流で畑の中で鍬を杖に一休み。「何時になったら祖国に帰れるのかなぁー」などと立ち話をしながら休んでいたら、ブシン・ブシン(だめだめ)と言う。つまり一服すること仕事を怠けていることで、働けということだった。要は手を休めずに牛の如く慢々的に(ゆっくり)作業していれば彼等は満足するという大陸性的習慣の違いがあった。
 その頃、各分隊から2~3名ずつ兵の選抜の編成で遠く離れた地区へ派遣されることになった。早朝に部落を出発し10数キロ離れたちょっと賑やかな街まで行き、大きな寺の前に建っている朱塗の廟が、われわれの滞在中起居する場所だった。建物の中は土間になっていて、その土間に天幕を敷いて、毛布にくるまって寝るだけである。毎日の任務は、そこから数キロ離れた地区で道路工事をしている他の部隊に米を運搬することだった。米の集積所から各自米を受領して背負って小高い山を一越えして、作業している部隊に引き渡す。こうした作業が一日行程で行われ、これが日課だった。宿舎に帰ってくると自分達の炊事、食事を終えて寝るだけ、その寝るのが楽しみの一つ。明かりもないところなので早々に床にもぐり込む。中に民謡の上手な兵隊がいて、寝ながら唄を聞かせてくれるので、それを子守唄に聞きながら眠りにつく。
 ある日、この街のお祭りがあり近郷近在から晴れ姿に着飾った多くの人達が集まり爆竹など鳴らし、街中が大賑わいになった。中にはクーニャン(若い女性)が新しい中国服に身を飾り鮮やかさを添えている。女性に縁の無い頃だったので美しさに魅了させられた。
 起居している建物から少し離れたところにクリーク(川)があり、天気の良い日など、そこで体を洗ったり洗濯をしたりして祖国に帰る日を待ち望んでいた。また後の山の中腹に木が生えてなく芝生によって眼下の街を見渡すことができる素晴らしい場所があって、その芝生に寝ころんで青い澄み切った空を眺め、この空が祖国まで続いているんだという感傷に耽る。
 その山の裏側に部落があり、そこの住民が山を越えて自分達の宿営地のそばを通り街へゆく道になっている。その通りがかりの住民と手まね、足まね、片言の単語で会話したりして、時間を潰すこともあった。
 ここでの作業は10日間ぐらいで終わり再び元の部隊の宿営地に帰る。その後、自分は再び部隊の炊事係に任命され、その他出発まで炊事係担当する。兵隊は時間を持て余し、それぞれ遊びごとを考えるもので野球の好きなものは、ボロ切れを丸め、それを糸で固く締めボールを作り、近くの田圃で野球に興ずる。中には相当の腕前の経験者もいて指導に当たっていた。又、相撲の好きなものは附近の住民、若者を集めて相撲に興ずる。時には夕食時、アルコールも入り、みんな広場に円陣をつくり、日本式の宴会に入り手を叩きながら思い思いの歌を唄う。近くの民家から家族総出で、この光景を珍しそうに眺めて自分達も楽しんでいるようだった。
 兵隊仲間で縫い物など器用なものがいて、天幕のシートで巾の広いベルトを造って親友に配り喜ばれていた。ベルトの巾が広いから腹帯代わりにもなり、躰が締まり健康帯で復員後も暫く愛用した。 月日が流れ、帰国の望みもなく、この地で正月を迎えることになる。中国のお正月は旧正月の歴史的習慣であって、日本の正月の行事とやや似ている。日本の正月の行事はもともと中国文化が入ってきたと言われている。正月前、家族総出で餅をつく臼など全く日本と同じである。ただ、海の魚が無いので近くの共同のクリークの魚を部落総出で採り、これを分け合う。部落で裕福な家では、自分の家で飼っている豚一頭を屠殺し、その首を玄関の上に飾る習慣がある。日本でもお金持ちの家では大きな門松を建てる家と〆縄程度にする家との違いがあるように考えられる。又、正月中の一週間は門を締め切って開けない。正月中に門を開けると悪魔が入るという。中庭などで爆竹を鳴らして楽しんでいる。
 滞在して、しばらくたつと部落民とお互いに打ち解けて話しをするようになってきた。片言交りの単語をつなぎ合わせての遺志の疎通を図るといった程度だが、なんとなく家族的な雰囲気で和やかさが感じてきた。暖かい日の当たる庭で年寄り達は日本では竃の薪を準備するように、その原料は雑草を刈り取ったものを乾燥させ(干し草)ておき、これを腕の太さぐらいになるように捻り回して作る。これも生活の知恵でしょうか、乾燥した草をそのまま竃に入れると、ただボヤボヤと燃えるだけで長持ちしないが、これを固く締めると薪のように燃えるのだった。しかも捻るには、自分の手でやっただけではそのようにならない。
 日本で戦後農家などで使用された足踏みの縄をつくる機械のような格好をした木製の簡単なもので、一人がその木製の機械を手で回し、もう一人はその手前から干草を両手で入れてやると干草はしっかり捻れて出来上がる仕掛けになっている。これを50センチぐらいの長さにして積み重ねておく仕事がある。
 この二人でやる仕事を年寄りたちが孫を相手に手を借りてやっているが、私達はこれを見て手伝ってやると大変喜ばれた。その仕事を手伝いながらの会話で、先ず家族がいるか、何人か、両親は健在か、奥さんは、子供は、と言ったような身近な話が始まる。こうしているうちに国が違っていてもお互い人間同士、情が湧き、いよいよ別れになったとき、泣いて手を振って別れを惜しんでくれた思い出が67年経った今も忘れられない。
 部隊の兵隊の中には、いろんな職業の人、また芸達者、浅草劇場での芸人だった者がいるということで部隊に演芸班が組織され演芸大会が開催された。どのようにして集めたのか、ギターやハーモニカなど演出する楽団ができた。特に指揮者は優れていて、素人とは思えない程だった。この演芸大会に、我々を統監する中国軍の将兵を招待し盛大に行われた。
 広場にセットされた舞台では、日支友好にふさわしい演劇など、踊りあり、唄ありで大喝采を浴び日支親善の和やかな友好の雰囲気が会場を漂う。衣装など、よくもこれまで揃えたものと思うほどであった。なんと云っても指揮者は芸達者、歌は上手なこと。特にヨーマンテの夜など歌った時の印象が深く残っている。このように中国側の寛な取り扱いは、我々に抑留者という感じがなかった。   回虫駆除の栴檀、センダンはセンダン科の落葉高木で回虫駆除に効果があるといわれていた。当時の食生活では誰にも回虫がいて苦慮したものだが、特に行軍中、戦地での食べ物で回虫が殖え、これの駆除のためにセンダンの木の皮を剥ぎ、これを陰干にした後、しばらく煮詰め、そのつゆを飲むと効果の程、満点。直ちに回虫が排出される。「良薬は口に苦し」というが、飲みにくく全く勇気がいる。このことは兵の戦力にも影響することで行軍中でも衛生活動の一環として用いられていた。センダンの木は内地では山奥にあると聞いているが、中国では各戸で庭木として植えていて薬用に用いているという。これを知った兵隊が夕方コッソリと近くの家の庭にある木に薄暮攻撃をかけ、盛んに皮を剥いているところを家人に発見され、ブシュン、ブシュンと追い立てられホーホーの体で退散してきたこともあった。 綱紀の粛正が厳しく、窃盗、強盗、婦女子暴行など中国人に危害を与える行為のあった場合は本人は当然厳罰であるが、その所属する部隊全員が帰国できない強制労働に課せられるという厳達が毎日下達されていて誰もが、祖国に思いをはせ一日も早く帰国を望んでいることであり、なんら事故もなく過ぎたことは幸いであった。
 その頃、師団主力の情報として、我々部隊の先行している師団主力部隊は各所において八路軍との戦闘が続き苦難しているとの情報が入った。我々は戦場から反転する際に師団の最後尾として不利な行動を強いられてきたことを思えば、今は正に極楽であるように思われた。「軍隊は運隊」(運がよければ助かるし、悪ければそれまで)とよく云われていたが、正にその通りの運命を辿った。 この地で自分達兵15名お世話になった家は、部落でも裕福そうな大きな農家だった。主は村長でその長男は日本の早稲田大学を卒業した経歴で、武漢大学(我が国では当時の帝国大学)中国では有名な大学教授で、月に一度位は帰省し日本国内の状況を教えてくれて大変有意義だった。又その娘さんも日本語の教育を受けたとかで流暢な日本語での対話で唄は「上海の花売り娘」など歌って楽しませてくれた。教授の断片的な情報の中で、広島に新型爆弾が投下され、内地は今後何百年も草木が生えないとか、釜石は全滅したなど、自分達には全く想像もつかないことばかりで半信半疑だった。そんな話しの中で山形県庄内の殿様と言われていた本間家の傍系出身のひとりが、今後日本は土地解散、地主解体とか自分達には雲の上の話のようにしか思えなかったことなど口走っていた。祖国に帰還してみて、こうしたことが現実に実施されていることに彼の予言に驚かされた。
 いよいよ待ちに待った祖国に帰れる時がやってきた。約半年世話になった部落民とも別れを告げ、揚子江の乗船地まで歩く足どりも軽く急ぐ。着壁地には日本軍の大きな船が既に着岸していた。揚子江は濁水をたたえ、悠久無限に蕩々と流れていて、誰もが一途に祖国に思いを馳せ復員の喜びと希望に燃え、みんなの顔が生気に充ち満ちて見える。狭い船室は全てすし詰めで身動きできない状態だったが誰ひとりとして愚痴をこぼすものはいない。この出航の日は、忘れもしない今から66年前、4月29日、時、恰も天長節(現昭和の日)の日だった。輸送船は間もなく洋々たる揚子江の流れを下る。揚子江の巾の広いこと全く海のようだった。輸送船は三日目に中国首都南京に接岸、ここで下船、市内の川辺に幕舎設営する。夜に入り幕舎一帯を中国兵が監視のための巡回を始めるが、その際に天幕の裾から外にはみ出している軍靴など手当たり次第に持ち去っていく。我が方の不寝番も動哨しているが、その目を逃れての仕業である。このこと発見して抗議すると相手は銃剣を突き付けて有無を言わせない。こちらは素手であるから何らの抵抗もできない。ただじっと我慢の泣き寝入りするだけだった。
 翌日、小隊長に5~6名の兵隊が随行し南京城内にある軍の連絡所に行った時、途中暴徒など心配したが何ごともなく帰隊することができホッとした。南京から上海まで鉄道輸送。南京、昭和21・5・5出発。無蓋貨車に乗り一路上海に向かう。先行した部隊からの情報として、「輸送途中、駅と駅との中間に乗務員が計画的に列車を止め、その都度暴徒化した沿線の住民が襲撃して物品の掠奪を図る」ということを事前に知った部隊の経理担当者が後部の乗務員の乗っている車輌に乗り込み多額の金品を乗務員に与えて、とりなしたと聞く。途中の停車駅に停車した際、駅にいた中国兵2~3名、我々の乗っている貨車に近寄り銃を突き付けて何か盗ろうとする。これに対抗する術もなく、みんなで必死になって身を守るだけが精一杯の対抗手段。列車は平坦地を進行してゆく。遠くに家並みが見え始めた頃、誰かが「上海だ」と叫ぶ。そのうち我々を乗せた列車は、街の尾根と尾根の中に吸い込まれるように暫く走りやがて列車は海の見える港の駅に無事に到着。この港湾付近に幕舎設営して帰国の乗船の順番を待つことになった。これでやっと祖国に帰れるんだという気が焦る。ここで使う水は水道の蛇口が一ヶ所しかなく水の使用には長い行列ができる。 検疫が厳しく、下痢、チフス、コレラなどの患者が発生した場合は、その部隊全部が足止めになり帰国できないということで、用便の時など監視兵が立っていて下痢症状のあるものについては報告することになっていた。又、乗船の際、制限外のもの、例えば中国製のものなど一切携行できないという厳しい達しがあった。又、ここでアメリカ兵による白い粉を躰中に散布される。これは戦後しばらく我々の日常生活の中でお馴染みになったDDTの消毒であったことは初めて知った。今までシラミに悩まされ放題だったが、この消毒によりシラミも相当撲滅されたと思う。我々の幕舎用地には金網もなかったが、少し離れた道路の向側は一般邦人の収容所になっていて、周りは金網で囲まれている。この金網越しにお互い苦労話しなどして一日も早い帰国を望んだ。このさい奥地から苦難の連続でここまで辿り着いた話しなど聞くにつれ哀れでならなかった。この金網は一般邦人を保護する為の収容所になっていると聞く。
 港にはいつも山のような大きな黒い船が横たわっては去ってゆくが、我々には乗船の順番が回ってこない。そんなある日、2~3日中に乗船できるという噂が流れ、有頂天になり、それが現実となり5月29日乗船と決まった。乗船前に携行品の一斉検査があり、あれほど厳しい事前達しがあった割には検査は案外簡単に済んだ。この検査までが中国軍の管理であったらしい。以後は米軍の所管だったこ知る。
 昭和21年5月29日、待ちに待った復員船到着。乗船する船は初めて見る船で米軍の上陸用船艇LSTだという。船と岸壁とをつなぐタラップを一列に並んで船に上がって行く私たちの人員を米兵がチェックしている。米兵はもう何度も繰り返してやってきた作業に飽き飽きした無雑作な感じだった。タラップを一歩一歩かみしめながら昇る。これで中国大陸との別離となり、いよいよ祖国に帰れるんだという実感が湧く。船艙(貨物を積んでおく所)は全てすし詰め状態であったが、誰もが帰国できる喜びで我慢もできた。その船中で、私は今までの緊張感から解放されたせいか、歯が急に痛み出し、大変苦痛を感じていた。歯痛ぐらいだから良かったものの内科的病気にでもなったらと思うと我慢のしどころでもあった。
 船は一昼夜を経て博多湾沖に停泊す。船上から眺める祖国の山々は懐かしく、一刻も早く上陸したい焦りの気持で一杯だった。いよいよ船は桟橋に接岸し下船開始。タラップを降りたところで日本の兵隊と思われるものが一人ひとりに上海で乗船の際に散布されたDDTの散布をしている。その後、近くの倉庫のような建物の中で携行品を並べて米兵の検査を受ける。米兵から見ればボロボロの服を着ている乞食のような格好をした我々の荷物には手も触れることなく終わった。私はホッとした気持になり早速荷物をまとめて背負袋の中に押し込んだ。
 昭和21年6月3日、祖国の土を噛みしめながら、上陸地から市内を歩き、ある寺院が今夜一泊する宿だった。途中沿道では、道行く人はみんな「ご苦労様でした」と温かいねぎらいの言葉をかけて下さったこと大変有り難く身に沁み、戦いに敗れて帰還したこと申し訳ないという気持が交錯しつつ感謝の気持で一杯だった。宿舎となった寺院に着いたのはもう夕暮れ時であったが婦人会の襷をした人達が何かお手伝いすることがあったらと集まってきてくれたこと有り難く頭の下がる思いがした。
 どこの寺にもあるように本堂に赤い丸い柱が建っていて、寺院の尊厳を傷つけないようにと心配りをした。我々の部隊は最後まで軍律を維持してきたお陰で今までなんら事故もなく過ごし、無事復員できたものと喜んでいる。これも隊長を中心とした団結の賜と感謝している。

部隊解散

昭和21年6月4日


 やがて祖国での一夜も明け、博多の空は6月の澄み切った青空がいっぱい広がって私達の帰還を歓迎しているかのようであった。午前中に博多臨港駅に集合して、復員手続きがあり従軍証明書、引揚証明書、引揚乗車票、給与金の交付を受け、ほかに私は受傷証明書の交付を受け、ここで部隊解散されたが、みんなが東北出身者ばかりであるから、その後も同一行動が続き解散したという気持にはならなかった。
 ここに日本帝国軍人として部隊解散に当たり、部隊長の言葉を想起してみるに次のようであったと記憶している。
 「諸士は、ここに部隊解散、戦友と袂を分ちて家郷に入らんとしつつあり。然れ共、日本国内の現状は昔日と隔絶し、真に迷雲暗澹たる敗戦国の実相まざまざとして眼前に展開すべく、転々感慨無量にして、ここに外地における死闘に思いを浮かべばまた血涙無き能わざるべし。然りといえど祖国は、我らの祖国なり。帝国の復興は、諸士の練り鍛えたる堅確なる精神と強靱なる体躯により成し得るものにして、終戦後における尊い経験の数々は、真に祖国復興の大原動力たると疑わず。諸士は、真に祖国再興の志士公人あるを自覚して邁進するを要する処なり。吾人従軍の体験は、得難きものにして、必ず再建に復興に活用すげきを充分承知すべし。諸士の五体に流れる血潮は、遠くに二千六百年の昔を知り未だ敗れたるを知らざる鮮血脈々としてたぎりあると知らざるべからず。ここに諸士と袂を分たんとするに当たり、万感交々到り、尽くるを知らず。語らんとするも言、更に無し只々諸士が無事父母妻子の下に帰還し、壮健にて復興に挺進せられんことを祈念して告別の辞となす。
(註 途中文語一部省略)
 やがて復員列車が入ってきて、これに乗車一路故郷に向かって発車した。中国では無蓋貨車での輸送だったが、これに比べると高級車の客車だったが、窓ガラスが破れ、代わりに板をベタベタと打ち付けてあったが、それでも祖国に帰れた安堵感からみんな満足していた。
 このようなことから祖国の荒廃振りが推察された。復員列車は途中広島駅で打切りになり、この先は各自一般乗客として、それぞれの列車で「じゃ元気でなあー」と最後の言葉を交わし一路故郷に向かう。 

あとがき

 あれからもう67年という歳月が流れ、既に国寿92才という老境に入った今、その頃を追憶しながら、この稿を書き終り長い旅路をようやく終えた旅人のように私はホッとしている。それは阿修羅と化した苛烈な戦場で不幸にして自分も敵弾に倒れ瀕死の重傷を負いながら神仏のご加護によってか、九死に一生を得て夢にまで見た祖国日本の国に帰還することができた。しかし、一方では67年間経った今日まで常に脳裡から離れることのできないことは、共に戦った友が、国を護り、郷土を守り、そして家を守り、今日の近代日本の礎石となりながら未だ遺骨収拾もされず異国の星空の下で霊魂が紡徨していることに思いをいたし痛恨の極みでならない。
 この手記は一兵士に過ぎない狭い視野から見た体験からのもので、私の文章の表現力からして戦場における極限状態などは現実の十分の一にも描写できないのは残念でならない。この記録は私の記憶によるもので、その事象については幼稚なものかも知れない。中には幾星霜を経た日の姿、形にはどうしても、その面影を見出すことのできないものもあったり、また反面、あまりにも戦場の場面の激烈が鮮明に脳裡から離れることのない思い出したくない、書きたくないという事実もあった。手記にしては、まだ不備、不足な点が多々あると思うが、痴呆人間となった私の精一杯の手記である。
 なお、この手記完稿の日は、時あたかも67年前、あの戦場の最も烈しかった前線において不幸にして敵弾に倒れ九死に一生を得た日にあたり、これも何かの因縁かとも思われる。戦後67年、戦争の悲劇はすべて忘却の彼方に消え去ろうとしている。
 ここに、私の拙い記録をとどめ、「亡き戦友の御霊に捧げ、心からご冥福をお祈り申し上げます。」  

  合掌 


平成24年5月21日
元、日本帝国陸軍第47師団歩兵第91連隊第三大隊 第11中隊第3小隊第4分隊 兵士
高橋 等

『張家口大撤退作戦』

藤島勇雄 

シルバーネット掲載号 2002年8月号

 こちらは、引揚げ時、ソ連軍から逃げる民間人を守るために、日本軍が戦った『張家口大撤退作戦』に関するものです。終戦直後、攻めてくるソ連軍からモンゴル高原に住む四万人の日本人を救い出す撤退作戦について、二人の読者が投稿を寄せてくれました。当時、兵士だった方と救い出された女性。紙面での対面です。 2002年の終戦記念日を迎える前に、二人の読者からいただいたお手紙をご紹介いたします。
 一人目は、元国鉄職員の藤島勇雄さん(80)からの手紙。内容は、兵士として中国大陸に渡っていた頃、自らが所属していた二万人の部隊が四万人の民間人を進攻してくるソ連兵から守るため決行した撤退作戦について記されています。本紙「エッセイ大賞」の受賞作でもあります。

 終戦を迎えて間もない頃、中国の天津貨物厰(工場)で復員するのを待っていた時、内蒙古(※モンゴル高原の南、ゴビ砂漠にあたる地域)からの引揚者の一団と一緒になった。「無事に引き揚げることができたのも兵隊さんと鉄道員のお陰です」と話しかけられ、満州のような惨状を招くこともなかったことを兵士として誇りに思っていた。
 それから三十年後、現地で作戦指揮をしていた辻田参謀の手記が世に公表され、初めて「大撤退作戦」であったことがわかった。
 昭和二十年八月十五日敗戦。モンゴルにいた約四万人の民間人が全員帰国したので、旧蒙彊地区は当時、平穏無事と思われていた。ところが、日本軍はソ連桟甲師団の進攻を終戦の日から七日間に亘り戦死者多数を出し食い止めていた。その間、全民間人を鉄道輸送し、完了を確かめ二万の軍は北京地区まで昼夜不眠の強行軍で撤退した。鉄道大輸送は二日間で成し遂げ成功した。
 これらは、根本駐蒙軍司令官の大英断を、軍民一体になって決行したからである。
 今、これらの史実は永久ならんと銘記し、慰霊碑と蒙古語鎮魂碑をモンゴルとゆかりのあった仙台大梅寺に建立されてある。犠牲者の出身地は全国にわたる。私は兵二万の一員であったことを誇りに思い、お参りして新たな感動を覚えた。また、巨大な珍石材を遠く蒙古から搬入した人々に感謝したい。

雨にぬれだんまり石は語り出す

仙台大梅寺に立つ慰霊碑

藤島さんの手紙を紙面で発表してから半年ほどがたって、青葉区宮町にお住いの折笠美智子さん(74)が手紙を持参して編集室を訪ねてこられました。折笠さんはこの撤退作戦によって命を助けられた方で、掲載された藤島さんの手紙を読んで初めてそのことを知ったとのことでした。


(以下、折笠さんのお手紙より)

『張家口大撤退作戦』によせて


 毎年八月十五日が来ると、あの時のことがよみがえります。戦争は終結したはずなのに、なぜソ連兵は国境を越えて内蒙古に進攻してきたのでしょうか。毎日が恐怖でした。私は、戦局がだいぶ厳しくなった十八歳の春、蒙古自治邦政府職員として首都張家口に単身赴任しました。
 終戦から七日目の夕ぐれ、突然私たちの官舎に日本軍のトラックが何台か来て、「今夜は危険で、もうここには居られません。荷物を持てるだけ持って乗ってください」と言われ大慌てでした。
 一晩中、月もない暗やみの中をひた走り、次は無蓋車(※屋根のない貨車)で昼も夜も走り続け、北京ではいっぱいで受け入れられず、やっと天津に落ち着くことができたのです。
 日本租界の女学校や小学校、軍人会館等を移動し最後は引揚げを待つために天津貨物廠へ集結しました。ここは四里四方もあり旧日本軍の倉庫がいろは順に整然と並び、線路も通っておりました。
 エッセイ賞に選ばれていた藤島様の『張家口大撤退作戦』を拝読し、私もこの作戦の中で救出されたうちの一人で、なんとか帰国できた事を初めて知り、しみじみと感謝の念で胸がいっぱいです。
            
 えっ! この坂道をっ! バイクで降りてきたのっ! あんたいくつっ! 

 と、大梅寺のご住職に驚かれた白髪頭の私自身も、必死の思いで石ころだらけの急な坂道をバイクで降りましたよ。記事を拝見し、昨年十一月に訪れることができました。
 ご住職も張家口におられたとのこと、碑の前でしばし五十余年前の彼の地に想いを馳せ、祈りを捧げ感無量でありました。お花代を託し、胸を突くような坂道を這い登るように帰路についたのでした。


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 五十七年もの時を経て、新たな出会いと感動を与えてくれた撤退作戦は、大梅寺の慰霊碑に刻まれています。 

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藤島さんと折笠さんには、その後、お会いしていただきました。

付録

藤島さん宅で取材をする小紙千葉編集長(2002年頃)