お便り/6月号の未掲載分

海を越えて芽吹いた故郷の灯 トロント宮城県人会 誕生物語  2024年5月号「未知の国カナダへ」より続く

ジミー狩野(牧男)85歳  カナダ・トロント

 トロントの洒落た街並み、ヨークビル。石畳を踏みしめる靴音が乾いた空気に溶けていく。その一角に、和の趣(おもむき)を湛えたユニセックスヘアーサロン「カミソリの刃」があった。入り口のドアを開ければ、ほのかに香る木の匂い。梁や柱に宿る静けさは、遠い日本の町家を思わせる。異国にありながら、そこだけがゆるやかに故郷とつながっていた。 ――すべては、そこから始まった。 ある日の午後、ドアが控えめに開いた。現れたのは、落ち着いた眼差しの男だった。「Koji Goto と申します」。英語の挨拶の奥に、揺るぎない誇りが見え隠れする。彼は、かつて「密航船・水安丸」に最年少で乗り込んだ後藤金平氏の息子だという。命を賭けて海を渡り、未来を切り拓いた父。その壮絶な航海の物語は、彼の瞳の奥に静かに息づいていた。 彼が語ったのは、父から聞いた記憶だった。かつてバンクーバーには宮城県出身者が多く暮らし、宮城県人会が活発に活動していたという。祭りがあり、笑いがあり、助け合いがあった。異国の地であっても、そこには確かな「故郷」が存在していた。 その話を聞いた瞬間、私の胸に小さな火が灯った。――トロントにも、そんな場所があってもいいのではないか。 遠く離れたカナダの地で、同じ宮城の空気を共有できる場をつくる。それはきっと、誰かの孤独を和らげる灯になる。私はすぐに動いた。最初に相談したのは、のちにトロント宮城県人会・二代目会長となる木村重男さんだった。構想を語ると、彼は静かに、しかし力強く頷いた。その頷きは、言葉以上の賛同だった。 やがて、モガール・和子(高橋)さんも加わり、構想は確信へと変わっていく。そして1992年1月、私は初代会長として「トロント宮城県人会」を正式に発足させた。豪華な船出ではなかった。会場も資金も質素だった。しかし、「志」だけは確かだった。海を越えた宮城の心が、トロントの地にそっと根を下ろした瞬間だった。 初期の名簿には約40名の名前が並んでいた。新年会、夏のBBQ、折々の親睦会。宮城県出身者だけでなく、縁(ゆかり)や興味がある人々も集い、笑い合った。発足の年の秋、仙台からミュージカルグループ「Taro」が来加し、公演を行った。カエデの葉が赤く染まる頃、会場に響いた日本語の歌声は、郷愁と希望を同時に運んできた。異国の空の下で耳にする母国の旋律。それは、胸の奥に眠っていた記憶を優しく揺り起こした。 2年後の1994年5月、仙台育英高校野球チームがトロントを訪れ、イーストヨーク高校選抜チームと親善試合を行った。若き球児たちの全力投球は、文化の壁を越えて観客の胸を打った。試合後の交流会では、互いの健闘を称え合う笑顔が広がった。スポーツは勝敗を超え、人と人を結ぶ架け橋となる――その事実を目の当たりにした。 1996年10月には、東北日本カナダ協会の視察団38名が来訪した。団長・黒田四郎氏の堂々たる英語でのスピーチに、会場は深い感銘に包まれた。トロントと東北を結ぶ未来への可能性が、確かにそこにあった。 振り返ると、胸にひとつの苦い記憶がよみがえる。トロント宮城県人会が産声を上げた頃、宮城県の知事は本間俊太郎君だった。彼とは小学校一年生から5年間机を並べた旧友である。あの頃の私たちは、やがて一人は故郷に、一人は異国に立つなどとは思いもしなかった。だが1992年、トロント宮城県人会が発足したその時期に、彼は不祥事で知事の座を去った。知らせを聞いたとき、胸の奥に言い尽くせぬ思いが沈んだ。人の道は光ばかりではない。栄光の陰に挫折があり、誇りのそばに過ちがある。それでもなお、どんな嵐にさらされようと、「志」そのものの価値だけは消えない――私は今も、そう信じている。 やがて、トロント宮城県人会・副会長だった木村重男さんが単身で宮城県・県庁を訪問した。重厚な扉の前に立つ彼の胸には、静かな緊張と責任があったという。交わされた言葉は決して派手ではなかったが、一つひとつが橋を架ける石となった。数年後には、モガール・和子さんと阿部京子さんが宮城県を訪れ、県庁や関係団体を訪問した。遠いはずの距離が、笑顔の中で縮まっていくのを感じた。 まもなく、在トロント日本総領事館からJETプログラムのレセプションへの招待が届いた。1987年に始まったJETプログラムは、海外の若者を日本へ招き、国際交流や英語教育を促進する国家的事業だ。2019年までに80,862人以上(在トロント日本総領事館広報部発表)が参加し、カナダからの参加者も多く、1987年から2019年までに約9,440人。さらに2023年度には573人が、新たな期待を胸にカナダから日本へと旅たった。会場で輝く彼らの表情を見ながら、私は思った。トロントと宮城は、一本の見えない糸で結ばれているのだと。 トロント宮城県人会の集まりは、肩書きを脱ぎ捨てて語り合う温かな場へと育っていった。「んだがらさぁ~・・・」懐かしい方言が飛び交うたび、胸がじんわりと温かくなる。異国で生きる孤独は、同じ土の匂いを知る者同士が集えば、不思議と薄れていく。 トロント宮城県人会・2代目会長となった木村重男さんは、剣道七段の達人であり、トロント剣道クラブを率いる「拓武館」の館長でもある。同時に和食レストラン「銀杏」のオーナーシェフとして、日本食文化を広めてきた。彼の原点は、宮城県石巻市雄勝町。大須崎灯台から望む金華山、牡鹿半島の雄大な景色。灯台の眼下には大須漁港が広がり、ハート形に見える港としても知られている。彼は、雄勝町の海で育ち、1973年にカナダへ移住して以来、剣道と料理を通じて日本とカナダの架け橋となった。カナダ日本レストラン協会・会長でもある木村さんは、恒例の「和食まつり」の中心人物として、トロント日系文化会館の一大イベントに発展させた。2016年には日本食普及の親善大使に任命され、2020年に外務大臣より表彰され、さらに2025年には「旭日双光章」を受章した。その報せは、トロント宮城県人会の誇りだった。 トロント宮城県人会・3代目会長を継いだモガール・和子さんは、さらに強い絆で組織を支えた。しかし、2011年3月11日、東日本大震災が発生する。三陸沖を震源とする巨大地震と津波は、宮城を深く傷つけた。彼女の実家も流され、家族をも失った。しかも、母校の「大川小学校」の被害が連日連夜テレビ映像となって報道された。それでも彼女は、トロントで義援金募集活動の先頭に立った。「おにぎり販売大作戦」は多くの支援を集めた。(注;これは、本誌「ウエブ特典」の2024年3月号「世界は”おにぎり”ブーム」で紹介した。)そして、他からも集まった義援金総額250万円以上を被災地へ和子さん本人が被災者へ届けた。 彼女を追ったドキュメンタリー映画『長面/ながつら・消えたふるさと』は、トロントや日本各地で上映され、多くの人の心を打った。10年後、彼女から受け取った感謝の手紙には、支援への深い感謝が綴られていた。 だが、震災の影は私にも及んだ。息子クリス・狩野は、トロント和太鼓グループ「躍童」のリーダーとして、義援金集めのチャリティーコンサートを企画していた。だが本番直前に体調を崩し突然この世を去った。あまりにも呆気ない別れだった。私は心身ともに衰え、活動の第一線から退いた。モガールさんに負担をかけたことを、今も悔いている。 それでも彼女は歩みを止めなかった。トロント日系文化会館の正月会での着物ショーでは、企画とステージ監督を担当し、2016から昨年(2025)までは北米最大のカナダ日本祭り(Japan Festival Canada) での日本文化紹介の企画、進行を担当した。彼女は日本や宮城の魅力を精力的に発信し続けている。なお、35年にわたるモミジ日系老齢施設への慰問活動で、彼女は功労賞としてモミジ・センターから讃えられた。 やがてコロナ禍が訪れ、集いは断たれた。トロント宮城県人会の活動も停滞したが、2022年には「トロント都道府県人会・連合会」が発足し、新たな連携が始まった。そしてトロント宮城県人会の第4代目の会長に、宮本裕子さんが就任するという嬉しい知らせが届いた。困難な時代を支えたモガール和子さんへの感謝とともに、新たな灯がともる。 思えば、カナダ初の県人会は1902年(明治35年)にバンクーバーで誕生したという。その灯火は、世代を越え、海を越え、今も静かに燃えている。 トロントの空は、今日も高く澄んでいる。その青さは、遠く宮城の空へと続いているかのようだ。離れていても、心のふるさとは一つ。灯火は消えない。異国の地にあっても、私たちの胸に宿る宮城の心と魂はこれからも静かに、そして、確かに燃え続けていくのだから。