5月号の未掲載分
「旅路の果てに」第三部
(2024年5月号「未知の国カナダへ」より続く)
ジミー狩野(牧男)85歳 カナダ・トロント
1972年、初夏の陽射しがまぶしいある日、トロント・ヨークビル街の中心に、一つの夢が芽生えようとしていた。街を行き交う背景に、ほのかに漂う髪の香りと笑い声。そこに突如現れたのは、純粋な「日本風ヘアーサロン」の開店という、誰もが驚く大胆な計画だった。 その発端は、やはり、私のピエール・バートン氏に対する日本的なサービスと技術が要因だった。私にその計画を持ってきたのは、英国ロンドンの空気をまとった一人の男、ハリー・シンガー。適度に洗練されたユダヤ系の男性だ。小柄だが、眉間に寄せられた深いシワと、瞳の奥に宿る熱い情熱が、彼のキャラクターを際立たせていた。その真剣な眼差しに、私は一瞬にして心が昂るのを感じた。彼はかけがえのない信頼を私に寄せ、その店のマネージャーとしての役割を任せたいと言ってきたのだった。
彼の言葉は、私の心を刺激した。まさか、こんな形で人生の新たな章が始まるとは、夢にも思っていなかったからだ。異文化の交差点で、自分自身の新たな役割を見つけるとは・・・。私は夢を描いていた。ユニセックス・サロンの店内で、座り心地の良い革張りの椅子に身を沈めると、心地よい静寂に包まれる。広いサロンには、手入れされた坪庭の緑が広がり、季節の移ろいを静かに伝える。ここでは、忙しい日常を忘れ、自分と向き合う時間だけが流れるのだ。まさに、日本的な「和の心」を演出し、懐かしさと新しさが優雅に溶け合う、空間なのだ。この夢はただの美容サロンの誕生ではない。それは文化と信頼の架け橋であり、日本とカナダの友情を育む土台でもあった。未知なる冒険へと一歩踏み出し、喜びと挑戦を胸に抱きながら、私の物語は幕を開けたのだ。
当時、ハリー・シンガーの名前がトロント中に響き渡っていたのは、トロント市内に彼の経営するチエーン店はすでに10数軒を数え、当時、彼こそがトロントで最も名高いユニセックス・サロン「ザ・レーザーズ・エッジ」(The Razor’s Edge)のオーナーだった。私がカナダへ来て最初に飛び込んだ店は、その「The Razor’s Edge」の本店で、シャンプーボーイとして働いていた。ハリー・シンガー氏の店は、私にとってたんなる職場ではなく、華やかな刺激と期待に胸が高鳴った。彼の店こそ、カナダで私が追い求めていた夢の舞台となるべき場所だったのだ。そして、ハリー・シンガー氏の卓越した経営手腕と、お客様を魅了する店の雰囲気は、今でも私の心に深く刻まれている。
さて、「純日本風のヘアーサロン」をオープンすると言っても、そう簡単なことではなかった。それは、単なる美容室ではなく、まさに「日本」そのものだった。そして、カナダではまったく前例のない「和の心」を実現する空間でもあった。トロントには、日本人のヘアースタイリストはまだ誰もいなかった当時、ハリー・シンガー氏も、彼に助言する私も、その挑戦は決して平坦な道ではなかった。私は、故郷から遠く離れた異国で、理想を高く掲げれば掲げるほど、その実現には数々の困難な壁が立ちはだかるのを知っていた。しかし、ハリー・シンガー氏は、その壁を乗り越えてでも成し遂げたいと言う強い情熱が燃え盛っていた。そして、ハリー・シンガー氏との共同作業が始まったのだ。日々、新たなユニセックス・サロンを模索し、たくさんの顧客が来店することを想像し、それを楽しみながら、私たちのサロンは地域の人々に愛されていく。本物の日本の技術と、ハリー・シンガー氏のビジネスセンスが融合することで、一つの特別な場所が生まれていくようだった。
彼の計画は、まるで一つの絵巻物のように、綿密に練り上げられていた。新たにオープンする店舗の設計から運営に至るまで、彼の目は細部にまで光を注ぎ続けていた。とくにこだわったのは、スタッフ全員を日本人で構成するということだった。これは、日本特有の「和の心」の精神を海外に広め、訪れる人々に本当の心の安らぎを提供したいという、彼の揺るぎない決意の表れだった。店舗には、サウナ風呂と日本式マッサージ室も併設される予定だ。サウナ風呂は木の香りが漂う空間で、心身ともにリラックスできる特別な場所の提供を目指していた。実際に日本で体験することのできる温もりを再現し、ここで的確にストレスを解消することができる。また、日本式マッサージは、独自の技術と知識を持ったスタッフによって施され、癒しの空間を演出するのだ。彼の目には、ただ商売をするだけでなく、訪れる人々に忘れられない体験を提供するという高い志が映し出されていた。この店舗は、文化の架け橋として人と人が繋がる場所だけでなく、心の平穏を求める全ての人々にとっての拠り所となることを目指して・・・。何もかにもが、トロントでは初めての試みだった。
だが、何に一つまだカナダにはなく、すべてが手探り状態だった。そして、私たちの計画には、数々の大きな難題が待ち受けていた。特に頭を悩ませたのは、施術の核となる「ヘアーカット・チェア」の調達が大きな課題だった。私は東京の銀座で、長年マッサージ機能付き「タカラ椅子」を使用してきた。その高級感はいうに及ばず、多機能性に絶大な信頼のあることを彼に説き伏せた。しかし、当時のカナダには日本の「タカラ椅子」のような高品質な専用の椅子はまだ進出しておらず、カナダではすべてが旧式の代物だった。そのため、「タカラ椅子」はどうしても日本から取り寄せる必要があった。これは、単に物品の調達にとどまらず、日本文化を海外に根付かせるという、私や彼の挑戦そのものだった。私は、彼が日本の習慣や伝統、そして「おもてなし」の真髄を心ゆくまで理解できるよう、惜しみなく教え込んだ。しかし、このヘアーサロンの計画を進める一方で、私はすでに他の仕事も始めており、一つのことに集中出来ない状況は、まさに二足、三足のわらじを履くような毎日で、多忙を極めていた。それでも、シンガー氏と共に夢を追いかける毎日は、刺激的で充実していた。
ただ、すべてが進行していく中で、私の心には小さな後悔の棘が刺さっていた。それは、我慢の出来ない残念で恥ずかしいことだった。ある日、ハリー・シンガーが店名の「The Razor’s Edge」の日本語訳を聞いてきた。ペンと紙を差し出すので、私は戸惑うことなく「カミソリの刃」と走り書きし手渡した。それが、すべての始まりだった。「純日本風ヘアーサロン」の開店を控え、ついに店の看板が届いた。それを見た瞬間、私は、アッと驚いた。そこに掲げられていたのは他でもない、それは私が無造作に書いた「カミソリの刃」の文字だったからだ。
オープニングの日、多くの来賓で賑わう中、ある日系人の方から、「誰の字ですか?」と尋ねられたが、まさか自分の字だとは言えず、私はとっさに「看板屋さんが書いたどこかの日系二世の字らしいですよ」とごまかした。心の中では、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいだった。その残念な後悔だけがいつまでも気になっていた。中には、「なかなか枯れた字で素晴らしいね。」という客もいて、皮肉たっぷりの言葉には私は苦笑したのだった。「カミソリの刃」とは、切り取るだけでなく、創造する力を持つという意味を込めていたのかも知れない。だが、私は、「カミソリの刃」という名が、私の選択と運命を象徴しているかのように感じられた。
さて、長い道のりを経て、トロントのヨークビル街に「純日本風ヘアー・サロン」がついにオープンした。最初の構想からすでに6ヶ月以上の月日が経ち、遂にその夢が現実のものとなった。このオープニング・セレモニーは、ただの美容室のオープニングではなく、多くの著名人たちが一堂に会し、まさに社交の場のようだった。オープニング・セレモニーの日、晴れ渡る空の下で行われた式典には、和服で正装した女性陣が来賓を出迎えた。政界や財界の重鎮、さらにオタワからは日本国大使、トロントの日本総領事館のトロント総領事はじめ関係者、日系2世の著名人など、もちろん、カナダ・マクドナルド・レストラン社長のジョージ・コーホン氏、カナダの顔とでも言うべきピエール・バートン氏も祝福に駆けつけてくれた。とくに、ピエール・バートン氏のプロダクションがオープニングの様子をテレビ収録し、それがカナダ全土のテレビ・ニュースで放映されたことは、驚きを持って迎えられた。この出来事は、新しいサロンがただの美容室ではなく、トロントの街に新たな文化の風を吹き込む存在として認識されたことの証でもあった。
開店当初は、物珍しさもあり、営業は順調に伸びて行った。客層はカナダ人の裕福層が集まった中で、ユダヤ人の客層が断然多かった。これはオーナーがユダヤ系なので自然とユダヤ人が集まってきたようだ。中には当時のオンタリオ州々政府の大蔵大臣アラン・グロースマン氏はじめ政界、財界の要人、後にトロント市長になる有名なメル・ラストマン氏や、私の周りには、ユダヤ系のジョージ・コーエン関係の知り合いが沢山いたため、私はユダヤ人とのコネが出来上がった。ピエール・バートンはマニュキアとサウナやマッサージの常連客となり、ヘアーカット以外は私がテレビ局へ出向きテレビ番組用にセットしてあげた。その他、日系人2世の建築家で、東京の「カナダ大使館」の設計をした、世界的に有名な建築家レーモンド・森山氏。特に、この方は、この時以来の馴染み客で、私と彼との友好50周年の記念パーティを企画したが、その直前に、新型コロナウイルス騒動の時に彼は亡くなられた。
開店当初の頃を思い出すと、どこか物珍しさが漂っていた。新たな純和風ユニセックス・サロン「カミソリの刃」はたくさんの期待と夢を乗せ、オープンの瞬間を迎えた。周囲の人々はその新しい試みに興味を抱き、内部を覗いてみる。そこには自然光が差し込み、洗練された内装が施され、街の喧騒を忘れさせる静けさがあった。まず目に飛び込むのは、鮮やかな真っ赤な椅子が並ぶロビー風の客待ちスペースだ。その長椅子はまるで「お待ちしております」と言わんばかりの存在感を放っていた。そして、その前には、洗練された受け付け嬢が座る真っ白なデスクがある。彼女の笑顔が、訪れるすべてのお客様を温かく迎え入れてくれる。その横には、やはり真っ白なマニュキュア施術テーブルがある。
奥に進むと、まるでアートギャラリーのように壁に飾られた大きな日本の風景写真が広がっている。神秘的な富士山、色鮮やかな紅葉、そして静かな竹林。見る者を一瞬にして日本へと誘い込む。どこか懐かしさが漂うその空間は、思わず微笑みを誘う。サロン内のインテリアは、赤と白を基調とした統一感があり、配色の妙が心地よい空間を演出している。特にオレンジ色の壁紙が、まるで海の波のように躍動感を与え、非日常的な雰囲気を醸し出していた。このサロンは単なる美容院ではなく、まさに心と体をリフレッシュするための美のオアシスなのだ。そして、何よりも輸入されたばかりの日本製「タカラ椅子」の高級感は、その存在をひときわ目立たせてくれる。この店で、日本の「タカラ椅子」が、カナダで初めて使用された場所であり、当時の開店時には多くの人々の好奇心を集めていた。
さらに奥へと進むと、静寂なマッサージ室が二つ存在する。柔らかな光に包まれた空間で、熟練のスタッフによる施術が受けられる。老舗の技術が生きるこのマッサージは、ただの癒しを超え、心身を再生させる力を持っている。施術後は、夢のような瞬間が待っている。「サウナ風呂」と呼ばれる特別な浴場と、くつろげるお客様専用の休憩室が用意されているのだ。日本茶を手に、心地よい時間を過ごすことができるこの環境は、訪れるすべての人々にとっての心の休息地となる。一番奥には、スタッフのための休憩室がある。開店当初からのスタッフは全員日本人が集められた。ヘアースタイリストが4名、アシスタントが2名、マニキュア係が1名、受付嬢が1名、プロのマッサージ師が2名と、計10名のスタッフが一丸となって、新たなスタートを切った。このように充実した日本人スタッフを探し出すのは、一筋縄ではいかない作業だったが、それこそがこのサロンの強みでもあった。
ある日、日系カナダ人の家族が和風ヘアーサロン「カミソリの刃」に突然訪れた。「後藤コウジ」と自分を紹介した男性は、なんと、かって密航船「水安丸」で最年少の乗船客だった「後藤金平氏」の長男だった。その瞬間、私の胸に熱いものが込み上げて来た。なぜなら、その密航船の物語は、14歳だった私に海外への夢を与えてくれた、特別な存在だったからだ。彼らは、わざわざこの店の噂を聞きつけ、100km先の隣町ハミルトンから訪ねて来てくださったのだ。しかし、残念なことに、後藤金平氏は、私がカナダの地を踏む10年前ほど前に亡くなられていたのだ。もし、波乱に満ちた日本からカナダへの航海について、直接お話を伺うことが出来ていたなら、それはどんなにか光栄なことだったことだろう。彼らにお会いし、つくづく私の稀有な人生を思い起こさせるのだった。 (おわり)
