お便り/8月号の未掲載分

トロント55年を振り返って ― 異国で老い、異国で学んだこと ―

ジミー狩野(牧男)85歳  カナダ・トロント

 「ああ、なんでこんな田舎みたいな街に来てしまったのだろうか」これが55年前、私がカナダ・トロントに降り立った時の第一印象だった。現在のトロントは高層ビルが林立し、多民族都市として世界中から人々が集まる国際都市である。しかし私が移住した1969年前後のトロントは、今とはまるで別の街だった。街にはまだ英国紳士然とした人々が闊歩し、家々はレンガ造りが中心。高層ビルなどほとんど見当たらない。どこか英国の地方都市を思わせる静かな街だった。当時は第二次世界大戦の記憶がまだ生々しく残っていた時代でもある。日本人に対する偏見や差別は決して珍しいものではなかった。特に戦時中、日本軍の捕虜となった経験を持つ元英国軍兵士やカナダ人退役軍人の中には、日本人に強い感情を抱いている人も少なくなかった。私自身、移住当初は自分が日本人であることを隠し、「香港から来た」と名乗ることもあった。地下鉄で日本人の友人と話していた時のことだ。向かいに座っていた英国風の老婦人が突然こちらを指差し、「ここでは英語を話しなさい」と大声で怒鳴った。今なら考えられない話だが、移住して2、3年はそんな経験も珍しくなかった。バスの中でも、白人と黒人や東洋人は座席が分けられていた。一方で、街は大きな変化の入り口に立っていた。1970年代に入ると高層ビル建設ラッシュが始まったのである。私は当時、不思議に思っていた。広大な土地がいくらでもあるのに、なぜオンタリオ湖の湖岸を埋め立てるのだろうかと。後になって理由がわかった。高層ビル建設で掘り出された大量の土砂の処分場所が必要だったのである。その結果、湖岸の埋立地には公園やヨットハーバー、レジャー施設が次々と造られていった。今日、私たちが親しんでいるウォーターフロントの美しい景観は、そうした時代の産物でもある。さらにトロント発展の背景には、ケベック州の独立運動も大きく関係していた。当時、カナダ最大の都市はモントリオールだった。しかしフランス語重視政策が進み、英語圏企業の間に不安が広がった。大手企業や金融機関、多国籍企業の本社が次々とトロントへ移転した。結果として人口も産業も集中し、トロントはカナダ最大の都市へと成長していったのである。その後も、トロントには英語を話そうとする移民が増え続けた。世界中から人々が集まり、街は急速に国際化していった。私自身も事業の失敗を経験したが、1995年頃から日本人留学生向けの下宿屋を始めた。これが思いがけず繁盛した。当時は日本からの留学生が多く、空室待ちが出るほどだった。26年間で数百人の若者たちと出会った。その経験は私たち夫婦にとって何物にも代えがたい財産となった。留学生には実にさまざまな若者がいた。到着してから一か月近く部屋から出てこない学生もいた。ある男子学生は、私の作った肉じゃがを食べた瞬間、突然涙を流した。「母親の味を思い出しました」その一言が今も忘れられない。異国に来る若者は強そうに見える。しかし実際には不安と期待を抱えた普通の若者である。夜中に実家へ電話をかけ、「帰りたい」と泣く学生もいた。ところが一週間後には友人と笑いながら出掛けていく。若さとは本当にたくましいものだと思う。私たちの下宿屋は英語学校ではなかった。ただ、「おはよう」「いただきます」「おやすみなさい」と日本語が聞こえる家でありたいと思っていた。共同生活の中で思いやりを学び、人として成長していく若者たちを見ることが、私たち夫婦の喜びだった。卒業後に医師になった学生もいる。パイロットや教師になった者もいる。結婚式の招待状を送ってくれた元留学生もいた。カナダ人と結婚し、子どもを連れて遊びに来る卒業生もいる。気がつけば、広すぎると思っていた寝室が6部屋ある大きな家は、青春の思い出でいっぱいになっていた。そして今、私たち夫婦は86歳になった。現在は日系高齢者施設「モミジ・シニア・レジデンス」で暮らしている。この冬には、日本に住む70年来の親友を亡くした。同じ糖尿病患者だった彼とは、長年にわたり日本とカナダの医療制度について語り合った。カナダの医療は診察料も薬代も基本的に公費負担である。日本の友人たちはそれを羨ましがった。しかし現実には問題も少なくない。検査予約に1ヶ月以上待たされることもある。救急搬送されても病室不足で廊下で長時間待機することも珍しくない。また、ホームドクター制度のため専門医を自由に選ぶこともできない。理想と現実は必ずしも一致しないのである。その点、現在暮らしている施設では医師や看護師たちが常駐し、薬も迅速に届けてもらえる。高齢者にとって医療体制の充実は何よりの安心材料だと実感している。振り返れば55年。差別の残る時代から多文化共生の時代へ。レンガの街から超高層都市へ。そして働き盛りの移民から高齢者へ。トロントも変わった。私も変わった。しかし一つだけ変わらないものがある。それは人との出会いである。若い留学生たちとの出会い。家族との出会い。友人との出会い。そして異国で出会った多くの人々。家は人が住むためにある。そして人は人との出会いによって育てられる。55年のトロント生活を振り返った今、そう確信している。老後の幸せとは豪華な家でも財産でもない。安心できる医療と、語り合える人がいること。そして人生を振り返った時、「良い出会いがあった」と思えることではないだろうか。