お便り/5月号未掲載分
「カナダの歴史」前編 ”ワインとウイスキー”
ジミー狩野(牧男)85歳 カナダ・トロント
カナダの歴史は「ワインとウイスキー」だ。と、よく言われる。しかし、カナダの歴史を語るには先史時代にまで遡る必要がある。現在カナダのファースト・ネーションズと呼ばれる先住民の人たちの先祖は、約4万年前の氷河期(氷期)にベーリング海峡がまだ陸続きだった頃にシベリアからアメリカ大陸に渡ってきた日本人と同じモンゴロイド系と言われている。カナダには630の異なった部族がおり、ファースト・ネーションズはカナダ全土に散らばっている。また、同じ部族でも米加国境を跨いだのも。その数は約180万人と言われている。(メティスと呼ばれるヨーロッパ人との混血とエスキモーと呼ばれた北極のイヌイット及び米国の先住民を除く)ただ、紀元1000年頃にヴァイキングたちはヨーロッパ人として初めてカナダに足跡を残した形跡がある。やがて15世紀末になり、1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見した後(日本は室町時代で戦国時代に突入した頃)ヨーロッパ人による本格的なカナダの探検が始まった。1497年、英国王ヘンリー7世の命を受けたイタリア生まれのジョン・ガボットは、カナダの東海岸に辿り着いた。しかし、彼はアジアの富を求めてもっと西へ向かうはずだった。(一説によると、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の影響で、日本へ金銀を求めて海路アジアを目指したと伝えられる。)それから37年後の1534年になると、フランス人探検家ジャック・カルティエがフランス王フランソワ1世の命を受け、セント・ローレンス川の河口付近に幾度となく派遣され探索。彼はその周辺の土地を原住民から聞いた「カナタ」(村)という言葉を「カナダ」と命名。その後、同じフランス人探検家のサミュエル・ド・シャンプランがセント・ローレンス川の中流付近にケベック植民地の基礎を築いた。彼は「ニュー・フランスの父」と呼ばれ今でもこの地域(ケベック州)にはモントリオールやケベックなどの都市がありフランス語圏が残る。なお、サミュエル・ド・シャンプランはオンタリオ湖を西へ進みトロント周辺も探索している。(その先に、西側アジアへ通じる出口があると信じてのことだったという。)さて、16世紀に始まったフランス人たちによるアメリカ大陸の植民地化は破竹の勢いで進み、1699年にアメリカ中央部を流れるミシシッピー河流域にルイジアナ植民地が樹立されたことによって植民地が一挙に拡大した。その範囲は現在のカナダ領に留まらず、北極圏のハドソン湾、北米大陸の五大湖、ミシシッピー川流域を境に縦断し、メキシコ湾(カナダ人は”アメリカ湾”とは呼ばないッ!)北米中央部全域に拡大して行った。もともとフランス人が北米大陸にやって来たのは、まず先人たち探検家のように太平洋やアジアへ出る北極圏の北西航路を探り、アジアへの道筋と富を求めてのことだった。しかし、フランスが北米大陸を植民地にした背景には、アメリカ大陸を植民地化にすることで北大西洋の豊富な漁場とカナダの高価な毛皮、そして南部植民地の砂糖などをヨーロッパに輸出をすることが目的で、フランスは次々と植民地を増やし発展して行った。(現在も地球の西半球にフランス領が残るのはその当時から植民地になったもの。)17世紀になるとイギリスもフランスの後を追うように植民地活動を始めたためフランスとの摩擦が生じていった。イギリスとフランスは歴史的にあまり仲がよくないのは有名な話。イギリス対フランスの戦争は本国にとどまらず北米大陸でも領土争いに発展した。先祖から北米大陸に住みついていた先住民をも巻き込んだ大規模な戦争だったが、ここに「ワインとウイスキー」の違いが登場する。もともとカナダの先住民はフランス側についており、人数の上ではフランス側が有利に戦っていた。しかし、イギリス側はウイスキーを先住民に与えたことで「アル中」が一挙に増え続け先住民たちはウイスキー欲しさに大挙してイギリス側に寝返ったのだ。フランスが持ち込んだワインじゃウイスキーに比べるとさほどアル中は生まれなかった。余談になるが、私はオンタリオ州政府観光局の仕事でよく北極圏に行っていた。おそらく今でも先住民の居留地には「ウエット地区」と「ドライ地区」があり、先住民保護居留地では厳重にこれが二つに分けられている。要するにウエット地区には酒屋があり、酒は飲めるのだが、(カナダ先住民は酒類が無税)ドライ地区は厳しい禁酒区域なのだ。とにかく先住民にはなぜかアル中が多い。(先住民にはアルコールに対しまるで免疫がないように思う・・・私見だが・・・)なお、1670年創業で毛皮貿易から始まった北米大陸最古のカナダの会社「ハドソンズ・ベイ百貨店」が今年2025年6月15日をめどに355年の歴史に幕を閉じると発表したばかり。カナダの毛皮通商を独占し大きくなったイギリス系の会社だったこうして数の上で有利に立ったイギリス側はついに1762年(最初の探検から200年後!)、フレンチ・インディアン戦争でイギリスがケベックやモントリオールという重要都市を抑え、その結果、フランスはこの領土争いから身を引くことになった。身を引くといっても、フランスから移り住んできていた人たちが全員フランスに帰れるわけもなく、多くのフランス系移民がケベックやモントリオールに残ることになった。ただ、イギリス側はとても寛容で、言語を統制したり宗教を強制したりすることもしなかったのでフランス文化がカナダに生き残った。(現在でも、カナダは英語とフランス語の2ヶ国が公用語になっている理由がここにある。)こうして北米のフランス領とイギリス領は形勢が逆転し、1791年に現在のオンタリオ州を「アッパー・カナダ」そしてケベック州を「ローワー・カナダ」と二つの植民地に分けた。