お便り/6月号未掲載分
「カナダの歴史」後編 ”鳴りを潜めたトランプ”
ジミー狩野(牧男)85歳 カナダ・トロント
私たちがカナダと呼んでいる広大な地域は、もちろん最初からカナダという一つの国だったわけではなかった。 当時は、植民地をどんどん作っているだけだったので、各地でいろんな植民地がそれぞれに独立していた。 一つの国カナダができるきっかけとなったのは「アメリカ独立戦争」だった。 イギリスの植民地となっていたアメリカ東部海岸の13州がイギリスの課税政策に対し不満が高まり、ジョージ・ワシントンを総司令官としてイギリス軍と戦った。 この独立戦争は主に紅茶がきっかけだった。イギリスが紅茶に高い関税をかけることによってアメリカ人はそれに反発し紅茶離れが進み、アメリカ人がコーヒー党になった所以だ。 アメリカがイギリスに勝利することによって世界初の共和制国家が樹立した市民革命でもあった。 アメリカ独立戦争は、1775年から1782年まで主にバージニア植民地など現在のアメリカ合衆国南部で7年間も戦いが続いた。しかし、ヨークタウンの戦いでイギリス軍の降伏で終戦を迎えたのだった。 この時、アメリカに住んでいたイギリス王党派の清教徒たち(ピューリタン)が大挙してカナダ東部に移住を始めた。このため、アメリカから反感を買い、英米の関係がさらに悪化していった。 1783年にイギリスとアメリカが再び衝突し、独立戦争から30数年後に英米戦争へと発展していった。 1812年、様々な事情で反英感情が沸き起こっていたアメリカがイギリスに宣戦布告して、英米戦争が勃発。 カナダもイギリスに支配されていたという意味ではアメリカと同じだが、アメリカがカナダに攻め入ってきた。カナダはイギリスの支援だけでなくアメリカに迫害されていたアメリカ・インディアンの援護を受けて見事に侵攻を防いだ。 ちなみに、1812年の英米戦争はオンタリオ湖が海戦の舞台であった。トロントには今でもイギリス軍が戦った当時の「フォート・ヨーク」(ヨーク砦)がトロントの観光名所として現存している。 アメリカ海軍の指揮官にはオリバーとハザード・ペリー大尉兄弟がいた。その下には、彼らの弟でマシュー・ペリーがいた。彼はわずか14歳で見習い士官候補生としてこのオンタリオ湖で兄弟たちと共に湖上の戦いに参戦していた。 しかし、マシュー・ペリーはこの40年後に「ペリー総督」として黒船を引き連れ日本へ行くことになろうとは、この時彼はまだ知らなかった。 (なお、英米戦争終盤の1814年8月、イギリス軍がアメリカ合衆国の首都ワシントンDCのホワイトハウスを攻撃して焼き討ちにした。その焼け跡を白ペンキで隠したので「ホワイトハウス」と呼ぶようになった。) ところで、1853年と1854年、日本へペリー総督率いる黒船が来航している。その後、日本は1858年に日米修好通商条約を結び250年続いた鎖国を解除した。しかし、ペリー総督との条約は「関税自主権の欠如」と「治外法権を認める」内容で「不平等条約」だった。 さて、1841年に乗っていた漁船が難破し「鳥島」に漂流したジョン万次郎の話は特に有名だ。 捕鯨船ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長に助けられアメリカ本土に渡り、船長の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘブンで船長の養子となって一緒に暮らしていた。 やがてジョン万次郎が成人になった22歳の時、近々開国するためにアメリカ艦隊が日本に派遣されるとの情報を得た万次郎は郷愁の念にかられ居ても立っても居られず、祖国日本を目指し1849年にホイットフィールド船長の家を後にする。 その頃、マシュー・ペリーはフェアヘブンに住む従兄弟のワレン・デラノ家の近所にジョン万次郎が住んでいることを知り、手紙を送ったがジョン万次郎はすでに日本へと旅立った後だった。 この時、ジョン万次郎がペリー総督の通訳として黒船に乗っていたら歴史は大きく変わっていたに違いない。 さて、その頃アメリカでは、1861年にアメリカ南北戦争が勃発する。 これは16世紀から続く奴隷制度の反対派と賛成派の戦いで、じつは、有名なリンカーン大統領による「奴隷解放」の戦いだった。 結果的にリンカーン率いるアメリカ北部が勝利し、アメリカ合衆国は民主国家として発展を続けることになる。 (1867年、アメリカ合衆国はこの南北戦争の終戦後にアラスカをロシアから買い取る。) ちなみに、アメリカ南北戦争で使った南軍の中古の武器などは日本に多量に輸入され幕末の戊辰戦争で使用されたのをご存じだろうか? とくに、アメリカで発明されたガトリング砲は、南北戦争では使用されず、日本の戊辰戦争で初めて使用されたのだった。(注;ガトリング砲<速射砲>は複数の砲身が環状に配置され、人力でクランクを回転させる機関砲。日露戦争でも活躍した。) もともと南北戦争は、アメリカの北部対南部の戦争だったが、このときイギリスは南部側についた。それで北部の人たちはイギリスに激怒し、イギリス領のカナダに攻め込んでカナダを支配してしようとした。それでカナダは大ピンチになったが、カナダ側は植民地がバラバラでまとまりがなかった。 そこで、1867年イギリスはカナダにひとつの国としての権限を与えるが、これが「カナダの建国」となった。 現在でも、1867年から毎年7月1日が「カナダ建国記念日」で、カナダ最大の祝日だ。 今年は158回目の建国記念日を迎える。 さて、カナダ建国以来カナダとアメリカ合衆国は、さまざまな問題をクリアしながらも先の2つの世界大戦で軍事協力が始まり、両国の外交政策は密接な同盟関係にあった。(バイデン政権までは・・・密接であった!) トランプ政権以前、カナダはアメリカに対し世界最大の貿易相手国であり、2国間の国境は世界最長の非武装化の国境となっている。しかし、ドナルド・トランプ大統領の保護政策や「アメリカ第一主義」が両国関係に亀裂を生じさせた。 しかし、ドナルド・トランプの恫喝にも似た高圧的な発言は、ここ数週間鳴りを潜めている。(4月24日現在) ドナルド・トランプが口を閉ざすということは稀である。まるで、シャーロック・ホームズが事件を解決する際に注目した「吠えなかった犬」のように、トランプが吠えなくなったその理由に、今カナダ国民は耳を澄ましている。 ところで、私はカナダへ移り住んで56年目になるが、つい最近までカナダとアメリカは兄弟のような信頼し合える国だとばかり思っていた。ところが、トランプ大統領の出現によって私の考えは根底から覆されてしまった。 よくカナダは「人種のモザイク」で、アメリカは「人種のるつぼ」と称される。カナダではお互いに生まれた国の文化を尊重し合う国だ。アメリカでは誰でも彼でも「十把一絡げ」で「強制的」にアメリカ人にさせられる。カナダ人とアメリカ人は根本的に考え方も違う。今、様々な面でカナダでは脱アメリカが進んでおり、アメリカの孤立化が見えてきている。 (注;1988年に「カナダ多様文化主義法」が法制化された世界初の国となった。) じつは、トランプが急に静かになったのは、反トランプのリベラル派がトランプの発言で急に盛り返して来たためだった。 なお、4月28日にカナダ総選挙があり、中道左派の自由党リベラルが僅差で勝ち、マーク・カーニー氏が次期連邦政府の首相となった。 果たしてこの先カナダとアメリカの両国関係はどうなっていくのだろうか。 トランプ関税戦争の影響で今後カナダ国民はますます一致団結を誇示することだろう。 トロントでは、今、アメリカ製品の不買運動が盛んに行われている。
追加記事 「カナダの総選挙」
カナダ・トロント / ジミー狩野(牧男)
「トランプ関税」や「カナダを51番目の米国の州に」と言ったカナダへの経済的脅しと国家の尊厳を無視した言動に対し、温厚なカナダ人も怒り心頭だ。 さて、4月28日に行われた総選挙の結果だが、トランプへの対抗姿勢は鮮明に現れたようだ。 ところで、当地の選挙でいつも思うのだが、政党が指名した立候補の名前を示した立て看板は家の周りや通りの至る所で見かけるが、本人の顔さえ知らないという選挙活動方法なのだ。 どんな人なのか、どんな活動をしているのか、地域への公約はなんなのか、まったくわからない。 とくに、カナダでは、街頭演説や街宣車での連呼などまったく出来ない制度になっているので、立候補者はどんな人なのか何をして暮らしている人なのか全然知らない人を選ぶことになる。当然のように政党で選び投票することになる。 カナダの2大政党は、中道左派の「自由党リベラル」と中道右派の「保守党コンサバティブ」なので、どちらが与党第一党になっても大きな差はないようだ。 多少政策のアプローチが違うだけなので、投票に当たっては地元の立候補者個人の人格がポイントになる。 なお、今回の選挙での各政党の当選議席数は次の通り。 リベラル自由党160議席、コンサバティブ保守党151議席、ブロックケべッコワ・ケベック党23議席、ニューデモクラティック新民主党8議席、グリーンパーティ緑の党1議席となっている。 現与党自由党が第一党となり、4期目の政権を担うことになるが、過半数を取れなかったため、マイノリティ政権として野党との協調を模索しながらの政権運営となるようだ。 滅茶苦茶なトランプ関税で振り回されての総選挙だったが、トランプは柔軟に対応すると言っている。しかし、方針も何もないことが完全に露呈している。 カナダ人の60%はトランプ政権に対抗すべきと言っているが、静かに見守りたい。