お便り/8月号の未掲載分

歌手・橋幸夫との思い出  

ジミー狩野(牧男)85歳  カナダ・トロント

写真説明 映画のポスターと4人の右側から私、ワイフ、橋幸夫とマネージャーです。夏になる前に開始された映画撮影も、クリスマス時期になっても橋幸夫と我々は毎日のように顔を合わせていました。

 歌手の橋幸夫が「アルツハイマー」で入院したと所属の夢グループ社長から発表されたのは5月末だった。 そのニュースを聞いた時は驚きと共に、とうとう橋幸夫は歌手生活ともお別れかと思われた。 しかし、その10日後の6月9日の報道では、アルツハイマーではなく「一過性脳虚血発作」で入院していたが8日に退院した。と、奇跡的な回復の報道に一瞬我が耳を疑った。 病名も聞き慣れないばかりか、6月11日開催の「夢グループ20周年記念コンサート公演」からステージに復帰すると発表されたからだ。 そして、嬉しいニュースはまだ続き、6月12日の朝のニュースで聴いた「橋幸夫復活ステージ!」で最後まで歌い上げたことだ。 それを聴いて安堵すると共に、我々夫婦が橋幸夫と一緒に過ごした青春の一ページが走馬灯のように蘇ってきた。
 この話しは60年前に遡る・・・ 我々夫婦が橋幸夫にお会いしたのは映画の撮影現場だった。 その映画とは、「あの娘と僕 ・スイム・ スイム・ スイム」だった。 映画では、主演が橋幸夫で女優陣に桑野みゆき、香山美子、夏桂子ら、そして助演俳優には宗方勝己や河津靖三郎に喜劇役者の大泉晃などの方々が主な出演者だった。 映画のストーリーは、神奈川県三浦半島の葉山に完成したばかりの有名なリゾート・ホテル葉山マリーナが映画の舞台になった。 水上スキーやモーター・ボートなどを製作している「リズム・モーターズ」の宣伝部員今村哲也(橋幸夫)は、今年も水上スキー、モーター・ボートの指導で葉山マリーナへとやってきた。 そこで繰り広げられる元気な若者たちがおりなすストーリーだ。 ・・・今年も葉山の海には若い夏が充満して、スイムのリズムが若者の健康を称えている。 我々夫婦は20代だったが、結婚してまだ新婚時代の頃だった。 逗子に住み葉山マリーナ・ホテルで働き、私とワイフはその映画の主人公そっくりそのままのような贅沢な生活を送っていた。 朝昼晩の食事は葉山マリーナ・ホテルの社員食堂で食べ、洗濯物はホテル・ランドリー室の友人に洗濯を頼み、バーでは仲良くなったバーテンダーに酒をご馳走になったり、たまに石原裕次郎や加山雄三ともバーで一緒に呑んだこともある。 夜自宅へ帰りたくない時はホテルのナイト・マネージャーに頼みホテルに泊まるという有り様だった。 また休日にはヨットで葉山沖に出てクルージングを楽しみ、趣味の釣りでは富士山の見える葉山沖で夜明け前から早朝の釣りを楽しんだ後に、ホテルの大浴場で一風呂浴びて午前9時から理容室に出勤するという贅沢さだった。 その恵まれた贅沢な暮らしは、我々夫婦の人生の中で最も華やかな頃だった。 橋幸夫と一緒に過ごした数ヶ月間が今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
  ホテル・葉山マリーナは、1964年の東京オリンピック・ヨット競技の本部でもありヨット競技開催地が葉山沖合だった。 じつは、夫婦で理容師だったが、当時私は東京銀座で働いていた。 そのお店は銀座に本店を構え10数軒の支店を銀座界隈に展開し、手広くバーバー・チェーン店を経営する店の社長の好意で、完成したばかりのリゾートホテル・葉山マリーナへの出向が決まった。 ワイフは、結婚してまもなく肋膜炎を患い私の郷里の宮城県北部の加美町(旧中新田町)で療養生活を送っていた。 だが、ワイフが東京へ戻ることになりそれまでの住まいが川崎だったことから、ワイフには空気がきれいで温暖な御用邸のある葉山がよかろうと、社長の好意で私は銀座本店勤務から葉山マリーナへ出向というかたちでの転勤が決まった。 葉山マリーナ・ホテルには美容室と理容室があり、どちらも同じ銀座バーバーチェーンの経営だった。 私はその店の責任者という肩書きで葉山マリーナへ出向したが、葉山マリーナ・ホテルでは特別社員扱いだった。 葉山マリーナ・ホテルには、一年中名の知れたお馴染みの映画俳優や女優、芸能関係者、人気歌手や音楽関係者とテレビ関係者などが多く集まって来ていた。 テレビ撮影などは頻繁に行われていた。芸能人や有名人達はよくお忍びでやってきた。 とにかく、典型的なリゾートホテルで、とくに避暑客相手に夏は大変混雑していた。 映画「あの娘と僕・スイム・スイム・スイム」は、葉山マリーナからも近い大船の松竹大船撮影所で映画製作が行われていた。 その関係で、出演者の橋幸夫は葉山マリーナでの映画撮影が終っても、さらに数ヶ月間は葉山マリーナ・ホテルに滞在し、大船撮影所にも彼の所有する12気筒の英国製ジャガーで通っていた。 その頃の橋幸夫は全盛期で恐らく最大の日本の演歌アイドル歌手だった。 当時、舟木一夫、西郷輝彦らと共に橋幸夫は「御三家」と呼ばれ、アイドル的な人気絶頂の歌手だった。 とにかく、当時の若者たちは夏になると湘南海岸へと繰り出した。そして、葉山へ行って遊ぶことが当時の若者達のステータスになっていた。 三浦半島の葉山や逗子は石原慎太郎著の「太陽の季節」で有名だった。 中でも葉山マリーナは慶應大学OBのヨットクラブの本拠地でもあり、大勢のヨット愛好家たちが集まってきていた。 ヨットハーバーには石原慎太郎・裕次郎兄弟の愛艇初代コンテッサ号の係留地でもあった。 加山雄三もまた愛艇大型クルーザー初代光進丸を係留し、森繁久弥がオーナーで当時日本一と言われた超豪華なクルーザー「ふじやま丸」の勇姿も葉山マリーナで見ることが出来た。 当時の若者たちはアイビールックという全身流行(はやり)のスタイルに身を包み、葉山マリーナは東京や関東周辺からやってくる若者たちの中心地になっいた。 若者たちに混じって私もアイビールックに身を固め湘南海岸を闊歩していた。
 映画撮影も序盤に入り、我々が働く理容室に橋幸夫は毎朝のように現れた。 それは橋幸夫が毎朝の髭剃りや身だしなみを整えるためだった。 理容室内では我々は夫婦であることを内緒にし、私は責任者でワイフは私のアシスタントということにしていた。 橋幸夫の顔剃りはアシスタントのワイフが担当した。 毎日現れる橋幸夫とはすっかり打ち解けて仲良くなり、彼の運転するジャガーにも乗せてもらった。 しかし、その内に大変なことが起きてしまった。 ワイフを独身と信じてしまった橋幸夫から彼の付き人と結婚させたいと提案されたのには驚き、これには参ってしまった。 ある晩、橋幸夫が運転するジャガーで、我々は逗子の住まいまで送って貰うことになった。しかし、ワイフと一緒に降りることが出来ず、私がワンブロック手前で降りて家までテクテクと歩いて帰る有様だった。 後日談だが、その話はすぐバレてしまった。夫婦で駅のホームにいるところをその付き人に見つかってしまったからだ。 これが橋幸夫との一番の思い出となっている。
 橋幸夫は、「潮来笠」でデビューし、股旅物の歌謡曲で一躍人気アイドル歌手へと上りつめたのだった。 そして、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」が大ヒットした。 ところで、橋幸夫と認知症との関わりは、母親サクさんの介護から始まった。 1984年の暮れ頃から認知症の症状が表れ、1988年頃には母親の徘徊が始まり物忘れや幻覚症状が酷くなったそうだ。 その介護生活の苦労話やエピソードは橋幸夫の著書に書き綴られている。 現在日本では、65歳以上の約16%が認知症であると言われているそうだ。 それが80歳の後半であれば男性の35%、女性の44%、95歳を過ぎると男性の51%、女性の84%が認知症であることが明らかになっているという。 統計によると、日本には認知症患者が471万人いるそうだ。予備軍を加えると1100万を超えるというから驚きだ。 我々夫婦も85歳になった。いつ予備軍に算入されてもおかしくない。 60年前、今にも挫折しそうになっていた私の海外渡航の夢を、「いつでも夢を」の歌でどんなにか励まされたことか・・・ 今、私たち夫婦がカナダで幸せに暮らせるのも、橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」のおかげかも知れない。 橋幸夫と葉山マリーナで過ごした青春の一コマを思い出しながら、「現役歌手・橋幸夫」の健康を祈りながら今後の活躍に期待したい。

(編集長のコメント)橋幸夫さんの熱烈なファンの読者の方がいらっしゃいます。その方も理容師で、お店の名前は「ゆき」。橋幸夫の「ゆき」から名付けたそうです。数年前に引退されましたが、この話しを聞いたら感激されることでしょうねぇ、楽しみ…。