お便り/9月号の未掲載分

ペット・フード大騒動

ジミー狩野(牧男)84歳  カナダ・トロント

 ある朝、大家が怒鳴り込んできた。カナダに着いてまだ数週間目のことだった。 我々はトロントに到着後すぐハンガリー系カナダ人の大きな3階建で古い家の屋根裏部屋を間借りしての生活が始まっていた。 右も左もわからず、まして英会話と英語の読み書きなどがまったく出来ない我々夫婦にとってカナダでは新米の移住者だった。 とにかく食べ物を探しに近所のスーパーを覗いてみた。英語が読めないので写真や絵と数字だけを頼りにいろいろと想像し、そして判断しながらの買い物だった。カナダの食料品は野菜以外何もかも初めてのものばかりだ。 横文字がダメなら当たり前のように缶詰だったら無難だろうとラベルに印刷された絵や写真で判断し、特価品の安売りの缶詰を多量に買い漁った。 マグロの絵、鶏の絵、牛の絵や豚の絵や写真で判断しながらの買い物だった。 ニワトリの缶詰も牛の缶詰もボソボソし味もイマイチだ。カナダの味付けは大雑把でまあこんなもんだろうと文句を言いたいのを我慢して、くる日もくる日も食べ続けていた。 チャーハン、焼きそばなどにも混ぜてみた。味付けも薄味でまあこんなもんかと我慢しながら食べていたというわけだ。 缶詰ばかりを食べていれば当然のように空き缶が出る。ゴミ箱に捨てられていたその空き缶を見て大家のアンデー・ワグナーさんが屋根裏部屋に怒鳴り込んで来た。というわけだ。
  あまりの突然のことなので、我々は呆気に取られながら何が何だか訳もわからない。驚いたのはいうまでもない。 寝耳に水とはこのことか、大家の話す英語がわからずただ夫婦でオロオロするばかりだった。 とにかく大家が手招きするので、階下まで彼のあとについて行った。そこにはその日の朝私が捨てたばかりの缶詰の空き缶が無造作に山と積まれていた。 私はその捨て方が悪いのかと丁寧にゴミ箱に入れ直したが、それでも大家の怒りは収まる気配はない。どうしても納得がいかなかったので、英語の出来る友人に来てもらい大家の言うことを聞いて貰った。 友人は、私に驚くように尋ねたのだ。「我々がペットを隠して飼っている。」と、大家が大変憤慨していると言う。間借りをさせて貰う条件の一つに、「いかなるペットも飼育禁止」という条項があった。 私自身約束を破ることはしない。ましてや我々日本人は礼儀正しい嘘のつかない国民であるとカナダ人は信じているようだった。 とにかく、友人には大家にわかるようにこと細かく英訳して貰った。缶詰のラベルの絵だけで判断し安売りの缶詰を買っては毎日食べていたことなどを正直に話した。 「日本人はペット・フードを食べるのか?」 大家は開いた口が塞がらないと言わんばかりに驚きながら、ことの顛末を納得したようだ。
 でも、それからが大変だった。隣近所へ瞬く間にその噂は広まった。 「日本人はペットフードを食べる!」 近所のコンビニへ買い物に行けば、ペットフードの味はどうだったかとか、このペットフードを食べてみるかとジョークの連発で散々な目にあった。 おまけに、ミルクを買た後で、足の裏のような腐った匂いがするのでお店に文句を言えば、それは「バターミルク」と言って、お菓子を作る時に使う材料のミルクだったり、またトマトジュースを買ってみれば缶詰の中でゴロゴロ何か凝固していると大騒ぎしてみれば、それはトマトの水煮の缶詰だったり、こと食べ物に関する失敗談には枚挙にいとまがない。 それから数年が経ち、カナダの生活にも慣れてきた頃、ペットフードの缶詰のラベルに魚や動物の写真や絵がなくなっていることに気がついた。聞けばカナダではそれが社会問題となり法律でペットフードの缶詰や関連商品には魚や動物の写真や絵は使用禁止になったそうだ。それ以降ペットフードには可愛い犬や猫の写真や絵がとって変わった。 ペットフードを食べて生活していたのは我々だけじゃなかったのだ。 今では笑い話だが、もし大家が怒鳴り込んでこなければいつまでも私たちはペットフードを食べ続けていたに違いない。