お便り/2月号の未掲載分
私のアイスフィッシング人生
ジミー狩野(牧男)85歳 カナダ・トロント
真冬のシムコー湖(カナダ・オンタリオ州・Lake Simcoe)は、私にとって特別な場所だ。キンと張り詰めた空気、足元でミシミシと鳴る氷、そして湖面を覆う雪と氷の銀世界。そんな厳しい大自然の中で、氷に開けた小さな穴に糸を垂らす「アイスフィッシング」は、私の人生を豊かにしてくれた。
トロントの喧騒を後にして、車を北へ走らせること約1時間。目の前に広がるのは、息をのむほど壮大なシムコー湖だ。その雄大な姿は、釣り人の心を瞬く間に捉えて離さない。南北に約30km、東西に約25kmという広さは、日本の琵琶湖を軽く凌駕するほど。面積は約725平方kmもある。
毎年、新しい年が始まるその日を境に、私の特別な生活が幕を開ける。これが恒例となっていた。1月1日から3月15日まで、規則によって定められたアイスフィッシングの季節が解禁される。その2ヶ月半の期間だけは、私の心と体が一つになるのだ。特別な時間だった。時には、夜釣りのガイドも兼ねて、シムコー湖の氷上の真ん中で、釣り小屋に泊まることも珍しくなかった。満天の星空を眺め、オーロラも時折出現する幸運にも恵まれた。 静かで幻想的な夜は、私にとって忘れられない思い出だ。お客様の顔を思い出すたびに、このガイドという仕事の喜びを深く感じている。
アイスフィッシングは、ただ氷の穴から魚を釣るだけの趣味ではない。氷点下の世界で、特別な感覚で魚の気配を探り、わずかなアタリを感じ取る。その瞬間は、全身の神経が研ぎ澄まされ、日常の喧騒から解き放たれるような感覚に包まれるのだ。分厚く凍てついた氷の下には、神秘に満ちた世界が広がっている。太陽の光も届かない深淵で、一体どんな魚たちが息づいているのか。釣り糸を垂らす指先に伝わるのは、冷たい静寂と、微かな期待の鼓動だけだ。
摂氏マイナス43度の世界も実際に体験した。そんな想像を絶する氷の上で繰り広げられるのもアイスフィッシングなのだ。そして、私と魚たちとの静寂な時間を想像していただきたい。鋭利な刃が肌を裂くように張り詰めた冷たい空気、吐く息は白く、指先はかじかむ。しかし、それがまた私には心地良いのだ。普段味わうことの出来ない極限の世界が、五感を研ぎ澄まし、神経を集中させてくれる。この特異な体験こそが、アイスフィッシングの大きな魅力の一つだ。肌を刺すような冷気の中、私の呼吸だけが白く息を吐き、それがまるでタバコの煙を吐くように立ちのぼる。そして、氷に開けた小さな穴から、深淵を覗き込む。そこには、日常ではとても味わえない静寂と、生命の息吹が共存している。このアイスフィッシングという趣味は、私に多くの喜びと感動、そして時にはほろ苦い学びを教えてくれた。まるで人生の縮図のようだ。
半世紀以上も前、アイスフィッシングというものを生まれて初めて経験した時、寒さに震えながらも、魚との駆け引きに夢中になった。微かなアタリに胸が踊り、釣り上げた瞬間のあの達成感は、今でも鮮明に蘇る。それは、まるで宝物を見つけたような喜びで、私の記憶の隅々にまで深く刻み込まれている。もちろん、いつも順風満帆だったわけではない。時には、釣り小屋が吹き飛ばされるようなブリザードが吹き荒れて、氷が割れて小屋ごと流されてしまい、その氷の上で孤立無援となった日もあった。また、一日中まったくアタリもなく、手ぶらで帰る日も多々あった。そんな時、心に広がるのは、挫折感と悔しさだった。しかし、その一つ一つの経験が、私を成長させてくれた。伝統的なアイスフィッシングの道具の奥深さ、微妙なアタリを見極める洞察力、そして何よりも、じっと待つ「忍耐力」。アイスフィッシングは、私に多くのことを教えてくれたのだった。
幸運は、思いがけない形で訪れるものだ。シムコー湖のほとりで、私はジョン・レディング氏と出会うことになった。彼はシムコー湖で一番大きな釣り小屋レンタルの経営者。その存在感は、シムコー湖の風景に溶け込みながらも、ひときは輝いて見えた。 レディング氏の所有する設備は、目を見張るものがあった。そこは12人乗りのボンバルディア(雪上車)を3台所有、釣り小屋大小合わせて25棟、収容可能人数は100人以上。そして、常に6〜7人の従業員が忙しく働いていた。彼らの手際の良い働きは、まさに「仕事人」そのものだった。レディング氏のビジネスが、いかに盤石なものかを物語っている。そして、彼の仕事は、どんなに寒かろうとも氷上でお客様を安全に守ることに徹していた。彼の眼差しは常に鋭く、氷上の全てを見逃さなかった。まるで天気と氷の状態を肌で感じるかのように、風の強さ、氷の色、歩く時の氷の音で危険を察知し、常に天気予報に耳を傾け、自らの足で広大な氷上をくまなく巡回していた。そして、彼の真骨頂は、釣り小屋を訪ね歩くその姿にあった。餌の補充が必要なお客様には、迷わず声をかけ、釣り方に悩む方には、そっと寄り添い指導していた。その細やかな気配りは、お客様一人ひとりの心に温かい火を灯したことだろう。
私は、自分の釣り客をガイドするために、レディング氏の釣り小屋レンタルのビジネスと提携することになった。互いのビジネスを結びつけ、共に発展して行く。そんな未来が、目の前に広がって行くようだった。とくに、彼はアイスフィッシングの奥義を惜しみなく私に教えてくれた。その指導は、私のアイスフィッシング・テクニックを飛躍的に向上させ、新たな可能性を開いてくれたのだった。
シムコー湖には、冬に釣れる釣りの対象魚がすべてそろっている。特に人気の魚は次の通りだ
「レイク・ホワイトフィッシュ」(日本のシナノユキマスに酷似)シムコー湖で最大の重さは約6.7kg 、体長74.9cm)銀色の輝きを放つ。マウンテン・ホワイトフィッシュは別種。
「レイクトラウト」(毎年約5.4kg ~ 6.8kg 級がシムコー湖でよく釣れている。)グレーの斑点が美しいオンタリオ州が原産。成長は遅いが巨大になる。現在、オンタリオ州では最大28.1kg が記録されている。日光の中禅寺湖へは、初期のキリスト教宣教師の手によってオンタリオ湖から稚魚が運ばれ中禅寺湖へ放流された。幻の大魚と称される魚がそれだ。
「ノーザンパイク」(和名;カワカマス)オンタリオ州で最大約19.1kg、約110cmが記録されている。大変獰猛で名高い魚種。オンタリオ州で有名な釣り場は北極圏のケサガミ湖で、水上飛行機が唯一の足になる。その地で私が釣り上げたノーザンパイクが最高記録だ。
「ジャンボ・パーチ」(スズキ科、約2.6kg、約37.5cm)シムコー湖随一の人気釣り対象魚。
「レィンボー・スメルト」体長は15~25cmで、日本のシシャモに似ているが大西洋からの外来種。
「シスコ」(別名;へレン)重さ約2kg 体長59.69cm 淡水のニシンで、トラウトに似て銀色に輝くスマートな胴体が大変美しい。
「ウォールアイ」(和名;ビードロスズキ)オンタリオ州の最大記録は約10.1kg,、体長約92.7cm 黄金色の胴体で目は水晶体のような輝きを持つ。オンタリオ州では一番の人気釣り対象魚。どんな料理にでもあう大変美味な魚だ。中華料理店でお馴染みの魚だ。
「バーボット」(和名;カワメンタイ)淡水のタラとして知られ、シムコー湖では、最大約8.3kg、体長ほぼ100cmにもなる。大変珍しい魚で湖底の掃除屋と称され何にでも喰いつく。釣り師たちには何故か敬遠される魚だ。
アイスフィッシングのガイド業はお客様と一日中釣り小屋に缶詰になる。通常約1坪(約4平方メートル)の小さな釣り小屋だ。両側にはベンチがあり、夜釣りではベッド代わりにもなる。足元には床と氷に四角に切り開かれた空間が広がる。そこから釣り糸を垂らし、ティップアップと称する伝統的な天秤式の釣り具の微妙な動きに集中する。プロパンガスのランタンが、釣り小屋を明るく暖かく照らす。キャンプ用のストーブは料理用でもあり、暖房ストーブの代わりにもなる。とくに、凍える湖上での夜釣りを快適にしてくれる。換気用の小窓からは、時折冷たい空気が流れ込み眠気を覚ましてくれるのだ。
釣り小屋で釣り上げた魚は、瞬く間に私が腕によりをかけて料理する。その美味しさが評判を呼び、ついにトロントのタブロイド紙「Toronto Sun」で大きく取り上げられるほどになった。この特異なガイドのおかげで地元シムコー湖やトロントでは私の名前が知れ渡り、とくに、シムコー湖々畔の東側ペファロー地区では市長も要人も挨拶に会いに来るほどだった。時には氷上小型飛行機で遠方からやって来る釣り客もいた。
夜通し釣りに興じることも、ここでは日常の風景だ。シムコー湖の氷上にはピーク時で約4000ものアイスハット(釣り小屋)と移動式テントが立ち並ぶ。これがシムコー湖の冬の風物詩となっている。2020年度の発表では、シムコー湖全体で釣りの経済的効果が推定1億1千200万ドル(約176億5,400万円)あったそうだ。
その昔、南部オンタリオ州に抱かれたシムコー湖。氷河期が終わりを告げた頃から、人々の暮らしを支え続けてきたアイスフィッシンの物語が息づいている。とくに、厳寒の冬、シムコー湖が厚い氷に覆われる時、その歴史は一層鮮やかに浮き彫りにされる。何世紀もの間、シムコー湖の豊かな恵みは、この地に暮らす先住民の部族にとってかけがえのないものだった。彼らはシムコー湖の奥深くに眠る魚たちを獲り、命を繋いできた。その営みは、まさにシムコー湖と共に歩んできた歴史そのものだった。やがて、遠いヨーロッパから新たな人々が訪れ、シムコー湖の辺りに定住するようになると、シムコー湖の漁業も少しづつ変化していった。伝統的な漁に加え、商業としての漁業が花開き、シムコー湖の恵みはより多くの人々の手に届けられるようになった。
ところで、ディズニー映画「アナと雪の女王」をご覧になった方で、あの美しい氷の世界に魅せられた方も多いのではないだろうか。魔法のようにも映るあの氷の切り出し(アイスカッター)、じつは、シムコー湖でも実際に行われていた光景なのだ。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、シムコー湖の氷の切り出し業は最盛期を迎えていた。かつて、電気冷蔵庫が普及する前の時代、天然の氷は人々の暮らしに欠かせない宝物だった。とくに、ホテルや肉屋さんにとって、食料の鮮度を保つために氷は文字通り命綱。真冬の厳しい寒さの中、分厚く凍ったシムコー湖から切り出される氷は、まさに冬の恵みだった。冬に切り出された氷はおが屑で一年間保存され、シムコー湖から鉄道で各方面に輸送されたという。やがて人工的に氷が造られるようになると、シムコー湖の氷の切り出しビジネスは廃れていった。じつは、シムコー湖で氷の切り出し業に関わっていた人たちは、その仕事の代わりに冬季はアイスフィッシングの釣り小屋経営に転じていったという。ジョン・レディング氏のご先祖もアイス・カッター会社の経営者だったという。
カナダ・オンタリオ州のシムコー湖は、今もなお、北米有数のアイスフィッシングの聖地として、その名を馳せている。シムコー湖が「カナダ・アイスフィッシングの首都」と称される所以だ。シムコー湖では、1991年に「世界アイスフィッシング選手権大会」が、1994年には、「カナディアン・アイスフィッシング・チャンピオンシップ」が開催された。とくに、1991年の世界大会では、私は日本選手団の団長としてこの大会に日系人を率いて参加し、3位の銅メダルを獲得する好成績を収めた。
釣りは、ただ魚を釣るだけの行為ではない。自然の中で過ごす時間、狙った魚がヒットした時の高揚感、そして釣れた魚を美味しくいただく喜び。これら全てが、心を満たしてくれるかけがえのない体験なのだ。日々の喧騒を忘れ、心を落ち着かせる至福の瞬間でもある。「一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。」「三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。」「八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。」「永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」これは中国の古い格言だが、私は開高鍵氏をオタワへ釣りのご案内をした時に、この言葉を彼から聞いた。
この言葉は、釣りがもたらす幸福の質と持続性を的確に表している。お酒や結婚、そして美味しい食事も幸せを与えてくれるが、その効果は一時的かもしれない。しかし、釣りは、技術を磨き、自然と向き合い続けることで、人生を豊かにしてくれる永続的な喜びを与えてくれる。
私もこの言葉を心に刻み、長年にわたり釣りの世界に没頭してきた。四季折々の景色の中で釣り竿を出し、大自然の営みの一部となること。哲学的な境地と言えるかもしれない。釣果の有無にかかわらず、釣り竿を振る一投一投が私の人生を幸福で満たしてくれる。これからもこのかけがえのない思い出を大切にし、豊かな余生を過ごしていきたいと心から願っている。
ジミーさん、写真もたくさんお送りいただき、ありがとうございます。和服姿もお似合いですね!(編集長より)















