お便り/3月号の未掲載分

「旅路の果てに」第一部

(2024年5月号「未知の国カナダへ」より続く)

ジミー狩野(牧男)85歳  カナダ・トロント

 55年前の4月6日、私と妻のやす子は、ようやくトロントの空港へ到着した。アラスカのアンカレッジ、そして、カナダのバンクーバー経由で、日本の羽田を発ってからすでに72時間が経っていた。トロントはまだ春の気配は遠く、肌寒い空気が私たちを包み込んでいた。見慣れない異国の地に降り立った私は、遠くまで来てしまったという漠然とした不安を覚えたのだった。不安を感じる私とは対照的に、隣にいた妻のやす子はまるで外国旅行に来たかのように浮かれている。その無邪気な笑顔を見るたびに、私の心は少しだけ和らぎ、やす子の明るさに救われた瞬間だった。一方で、私の胸には祖国日本へはもう帰れないだろうという確かな予感が横たわっていた。この地で人生を終える覚悟を決め、遠い故郷(ふるさと)への望郷の念は私の心から消えることのない、残り香のようにそこかしこに漂っていた。だが、やす子と二人、ここカナダで新たな人生を歩む決意を固めた。そんな日だった。 
 一歩、街へ足を踏み入れた瞬間、まるで時が止まったかのような感覚に襲われた。目の前に広がるのは、紛れもない異国の風景。石と煉瓦で築かれた建物が、夕暮れのアンバーの光を浴びて、一層その存在感を際立たせている。私は、物語の中に迷い込んだような錯覚を覚えるほどだった。
 通りの向こう、視線の先には、遥かな昔を閉じ込めたかのように、ひときわ高く聳(そび)える時計台があった。その時計台は、荘厳な石造りのお城のような建物と一体となり、どこか遠い異国の物語を語りかけてくるようだった。重厚な石の壁は、長い年月をかけて風雨に晒され、独特の風合いを醸し出していた。一つ一つの石には、この街の歴史と、そこに生きてきた人々の想いが刻まれているかのようだった。行き交う人々は、みな異文化の香りをまとい、耳に届くのは聞き慣れない外国語の響き。そんな光景の中に、私は確かに溶け込んでいた。幼い頃から、心に描き続けてきた「外国へ行く」という夢。それは、色褪せることなく、ずっと私の心の奥底で輝き続けていた。そして、今、その夢が現実のものとなり、目の前に広がっているのだ。
 かっては手の届かない存在だった海外の地で、私は、今、まさに生きようとしている。異国の文化に触れ、新しい言葉に耳を傾け、この街の一員としての日々を過ごしている。その事実が、私の心を深く満たし、しみじみとした感慨にしたらせるのだった。「外国へ行きたい」。その漠然とした思いが、私の胸に鮮やかな像を結んだのは、14歳の時。放課後の教室で、社会科の先生が語った二つの故郷の偉人の物語が、すべての始まりだった。一人は、「アラスカのモーゼ」と称された安田フランク恭輔氏。そして、もう一人は、1906年(明治39年)8月31日午前7時30分、宮城県の石巻(萩浜)港から82人を引き連れ、カナダへと密航した及甚こと及川甚三郎氏。私の故郷、宮城県の二人のフロンティア精神に満ちた生き様は、私の心を強く揺さぶった。彼らの話を聞くうち、私の胸には強烈な憧れが突き刺さった瞬間だった。未知の世界への情熱が、14歳の私を捉えて離さなかった。まるで、異国の風が私の頬を掠(かす)めたかのように・・・。
 窓の外に広がる空を、私はただじっと見つめていた。この場所から見る空は、いつも同じ青色をしているのに、今日はなぜか遥か遠い昔の過去を呼び起こしてくれる。忘却の淵に沈んでいたはずの感情が、ふわりと浮かび上がってくるような、そんな不思議な感覚だ。
 幼い頃の私は、小さな町で暮らしていた。道端の草花や、小川のせせらぎが、今でも鮮明に思い出される。しかし、その記憶の中には、いつも影のように付きまとう苦々しい思い出があった。それは、桜舞い散る入学式。希望に胸を膨らませるはずの私を待っていたのは、冷たい視線と心無い言葉だった。「耶蘇教の子」。私に向けられるあだ名は、両親が信仰するキリスト教が町中に知れ渡っていた証拠だ。小学校の廊下、通学路、どこへ行ってもその冷たい視線から逃れることは出来なかった。幼い私にとって、それは理解できず、ただ苦しいだけの体験だった。両親の信仰が、なぜ私をこんなにも追い詰めるのか、当時の私には分からなかった。毎日、学校へ行くのが憂鬱で、もうこの町から消えてしまいたいと願うようになっていた。もしかしたら、私の人生における「逃避」という行動は、この頃に芽生えたのかもしれない。困難や苦境から目を背け、別の場所へ行くことで解決しようとする癖は、この時、すでに私の中に深く根付いたような気がする。大人になってからのカナダ行きも、結局はその「逃避行」の延長だったのかもしれない。新しい場所へ行けば、過去の自分とは訣別できる。そんな淡い期待を抱いていたのだろう。しかし、場所を変えても、心の奥底にある傷が癒やされるわけではなかった。だからこそ、私の故郷に、心の底から語り合える「竹馬の友」と呼べる人が、私には一人もいないのだ。
 理容師としての腕を磨き、意気揚々とカナダへ渡った私。新生活への期待に胸を膨らませていた。カナダ・オンタリオ州での再出発は、新たな挑戦と輝かしい未来の始まりだと信じていた。しかし、現実は私の想像を遥かに超えるものだった。まさか、この地で「理容師」という専門職が存在しないとは、夢にも思っていなかった。目の前の事実に、ただ呆然とするばかりだった。
 カナダ・オンタリオ州の制度では、理容師としてのカテゴリーはなく、唯一の選択肢は、美容師の「ユニセックス」という資格を取得する必要があった。国が違えば文化も違うのが当たり前、まさか、同じ国で、州が異なるだけでこれほどまでに制度が違うとは、まさに異国の中でさらに違う国に来たようだった。もともと、私はブリティッシュ・コロンビア州のバンクーバーへの移住を考えていた。もしそのままバンクーバーへ行っていれば、こんなことにはならなかったかも知れない。カナダという一つの国でありながら、州が変わればまるで別の国のようなのだ。このことに気づけなかった私は、あまりにも迂闊だった。最終的に移住先をオンタリオ州のトロントに決めたのは、ごく単純な理由だった。それはホームシックになることを恐れ出来るだけ遠くへ行こうとしただけ。その時、「逃避行」の悪い癖が出てしまったのだった。
 「美容師ユニセックスの資格」とは、カナダ・オンタリオ州における、ヘアースタイリスト全般を指す。性別を問わず、男性、女性どちらのお客様に対しても、カットやカラー、パーマなどのサービスを提供するのが特徴で、日本のように男性客には髭剃りや顔のマッサージなどは一切行われない。この州では、美容師の技術すべてを習得し、それを提供できるプロフェ ッショナルが「美容師ユニセックス」として初めて認定されるのだ。特にオンタリオ州では、サービス提供の効率化や、多様な顧客のニーズに応えるために、このような統合された資格が採用されている。これにより、一つのサロンで男性客も女性客も同じヘアースタイリストからサービスを受けられるようになっている。
 東京の銀座で理容師としての腕を振るってきた私が、まさか30歳でトロントの美容学校の夜間部で学び、見習いシャンプーボーイとして再出発することになるとは・・・。ただ情けなく、悔しい気持ちでいっぱいだった。しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉を信じ、新たに美容師への道を歩み始めたのだった。幸運にも、トロントに完成したばかりの52階建の高層ビルの地下街にある、大手ユニセックスサロンに採用された。最初は歩合なしのシャンプーボーイ。サロンには30数名のヘアースタイリストたちが働いていた。なぜかイタリア人ばかり。私は彼らのお客様のシャンプー係。でも、日本の理容室で培った技術は伊達じゃない。とくに、日本流のヘッドマッサージ付きシャンプーは、瞬く間にカナダ人のお客様の心を掴んだ。お客様からのシャンプーの指名が殺到し、毎日たくさんの方の髪を洗った。慣れない土地での生活は厳しく、そのわずかなチップが私の生活を支える唯一の光だった。この手から生まれる日本式のシャンプー文化が、異国の地でこんなにも喜ばれることになるとは、私は驚きと共に、深い喜びと手応えを感じていた。
 やがて、美容師の資格試験にも一発で合格し、晴れてユニセックスのヘアースタイリストとしての一歩を踏み出した私には、さらなる試練が待ち受けていた。英語が出来なければお客様もつかず、シャンプーボーイのままではいられない焦りを感じていた。完全歩合制の厳しさが早くも立ちはだかっていた。しかも、やす子は念願のベイビーを授かったからだ。それからの私は、まさに馬車馬のように働いた。収入は不安定、かといってへアースタイリストの仕事を捨てるわけにはいかなかった。日中は、ヘアースタイリストとしてハサミを握り、午後6時に店が閉まると、ネクタイを締め直しタクシーの運転手に変身する。それが日課となっていた。タクシーの運転手になるためには、3種類の運転免許証を所持しなければならなかった。それも無事に合格し晴れてタクシードライバーになった。しかし、英会話が出来ないと、この国では何もかにもが壁となって立ちはだかる。当然、タクシーは無線での会話が出来なければ、お客様を乗せることすらままにならない。唯一の道は、流し専門の運転手になることだった。私はもっぱら流し専門に徹し、深夜のダウンタウンをひたすら走り続けた。午前0時を過ぎ、そろそろ終わりという時に限って、我が家から遠く離れた場所へ向かうお客様ばかり。ある時は、トロントのダウンタウンからナイアガラの滝までお客様をお乗せし、深夜往復四時間の朝帰りになったこともあった。
 トロントでの生活がすっかり慣れた頃、ある想いが私をとらえた。このままシャンプーボーイとタクシードライバーのままで良いのか。疑問だった。それまでの日々で培った経験と、胸に秘めていた情熱が、一つの決断へと私を導いたのだ。大手サロンの居心地は魅力的だった。だが、心の中では新しい世界を求めていたのだ。それは大きな賭けでもあり、大きなチャレンジでもあった。大手ユニセックスのサロンを辞める決心はしたが、それは、自らの手で新たな道を切り開くためだった。それまでの職場は、その周辺にカナダ大手4大銀行の本店が各四つ角に鎮座し、日本の総領事館はじめ、日本の有名5大総合商社のカナダ本社が入居するなど、エリート集団が働くような場所だった。そこで働いていれば、日本語での仕事も多少は可能だった。しかし、それに甘んじていれば、英語の習得が進まないという危機感があった。だからこそ、トロントの中心部を離れ、日本人の友人たちとも絶縁し、日本人が誰もいない地域で挑戦することに決めたのだった。
 ヨークビル街は、トロントのダウンタウンからは北部に位置し、1960年代のトロントでヒッピー文化の中心地だった。ベトナム戦争中、戦争に反対するアメリカの若者たちが国を逃れ、国境を超えてこの地に集まって来た。彼らはトロントの中心地を避け、より自由な雰囲気を求めてヨークビルを選んだのだった。開発が進んだ現代のトロントの中心部とは異なり、当時のヨークビル界隈は、若者たちが自分たちの文化を築き上げる場所だった。ベトナム戦争は、多くの若者たちの心に深い傷を残した。徴兵を拒否し、平和を訴える彼らの多くは、アメリカでの居場所を失い、再び祖国アメリカへは戻れないであろう、そんな覚悟でカナダへと、国境を越えて逃れて来たのだ。まるで私のように。祖国を捨て彼らもまた自由な表現を求め、集まった場所の一つだった。ヨークビルに集まった若者たちは、音楽、芸術、哲学など、さまざまな文化を生み出したのだ。フォークソングのライブハウスや個性的なブティックが軒を連ね新しい価値観が育まれる場所でもあった。1970年代の初め頃、ダニエル・ブーン(英国系)が歌った「ビューテフル・サンデー」の曲が歌われ始めたのもヨークビル街の若者たちからだった。今でもその面影は残っているが、私は彼らに共鳴し、進んでヒッピーの仲間たちの輪に入って同化していったのだ。現在のヨークビルの姿は大きく変貌した。かつてのヒッピー文化は姿を消し、高級ブティックやレストランが立ち並ぶ洗練された街へと変貌を遂げ、トロントの一大観光名所へと生まれ変わった。しかし、50年前の私には超高級エリアになるなんて知る由もなかった。それでもこの街の片隅には、当時の自由な精神が息づいているような気がする。
 ヨークビル街は、どこか浮世離れした空気をまとっていた。そんな街を、私は毎日ひたすらに歩き回っていた。目指すは、一人でも多くの「裕福そうな人」を見つけだし、声をかけること。手ぶらではない。ポケットには、一枚の特大名刺を忍ばせてあった。普通の標準サイズの名刺よりも一回り大きく、名刺を束にして持っていると、私の名刺だけが大き過ぎて、飛び出してしまうアイデアだ。表には住所氏名職業と電話番号が、そして裏には私の顔写真が大きく印刷されてある。名刺というよりは、もはや小さなポスターのようだ。
 『失礼いたします。もしよろしければ、日本流のヘッドマッサージ付きシャンプーを、無料で体験されませんか?』これが、私のセールストークだった。最初はブロークン・イングリッシュの私に、誰もが怪訝そうな顔をした。しかし、その言葉に興味を持った数人の、好奇心旺盛な紳士たちが、私の提供する「無料サービス」を受け入れてくれた。彼らの多くは、普段から最高級のサービに慣れ親しんでいる裕福層の面々だ。彼らは、私の技術と、何よりその大胆で突飛なアプローチに驚き、やがて満足げな笑顔を見せるようになった。
 美容業界では、誰もやったことがない常識破りというより、路上でのセールスという、奇抜なアイデアが功を博したのだ。無料で施されたヘッドマッサージ付きシャンプーの評判は、あっという間にヨークビル街を駆け巡った。彼らの間で交わされる会話の中で、「あの変わったジャパニーズ・ヘアースタイリスト」の噂は、次第に「素晴らしい技術を持った人物」へと変貌を遂げていく。富裕層のコミュニティで一度評価されると、その影響力は計り知れない。一人、また一人と、私の元を訪れる客の数は増えていった。それはまるで、小さな石が投げ込まれて波紋が広がるかのように、静かに、しかし確実に私のビジネスを成長させていく予感に満ちていた
 ちょうど、その頃に、私は、後(のち)のカナダ・マクドナルド・レストランの社長となるジョージ・コーホン氏に出会った。まさしく運命の采配とでも言うべきか。(この出会いは、本誌「ウエブ特典」2025年9月号・10月号に詳しく掲載。)そんなある日、私の人生に大きな転機が訪れた。それは大手ユニセックス・サロンで働いていた頃に、お客様として来店していたピエール・バートン氏が、私を訪ねて来たのだ。彼は、かつて私がシャンプーボーイとして担当したお客様の一人だった。日本流のシャンプーが忘れられないと、私の常連客となった。
(第2部へつづく)