お便り/9月号の未掲載分

カナダ・マクドナルド・レストラン会長「ジョージ・コーホンと私」  第一部(敬称略)

ジミー狩野(牧男)85歳  カナダ・トロント

 ジョージ・コーホンが他界したのは2年前だった。 ジョージ・コーホンと言っても読者の皆様には馴染みがないと思う。しかし、日本マクドナルド・レストランを初代社長・藤田田(でん)さんと一緒に創業した方といえばお分かりいただけるかと思う。 ジョージ・コーホンはカナダ・マクドナルド・レストランの創業者でもあり、亡くなるまでカナダ・マクドナルド・レストランの会長兼社長と最高責任者を務めた。
 さて、私がジョージ・コーホンから不意に声をかけられたのは、トロントのヨークビル街だった。トロントのヨークビル街は、高級ブティック街で金持ちの多く集まる場所として知られている。しかし、55年前(1969年頃)はカナダの原住民(当時はカナダ・インディアンと呼ばれていた。)やヒッピーたちの溜まり場で、とくにベトナム戦争に反対した大勢のアメリカ人の若者たちがアメリカから逃れて来てたむろしていた。当時のヨークビル街はそのような若者たちで溢れかえっていた。ジョージ・コーホンもそんなアメリカからの流れ者ぐらいにしか私は見ていなかった。私もカナダへ移住しトロントに定住直後(1969年4月)はその界隈でいつもふらついていた只一人の日本人だった。 たどたどしい英語ながらお互いの意思疎通はなんとか出来た。そのうちにお互いをファースト・ネームで呼び合う仲となった。彼はアメリカのシカゴから来たと言い、ユダヤ人と言うことも分かった。「ハンバーグ屋をやろうとしている」と自己紹介したので、私は「なーんだ、ハンバーグ屋のオヤジか」と納得していた。(ジョージが億万長者だということをその時私はまだ知らなかった。) 彼は1967年にカナダのトロントに移り、マクドナルド・レストランのカナダ東部フライチャイズの権利を7万ドルで取得した。(現在の価値で、約7,287万円) 1968年11月11日に、最初のカナダ・マクドナルド・レストランをオンタリオ州ロンドン市(トロント西方約190km)にオープンするが失敗に終わる。ちょうどその頃、私はジョージに呼び止められたのだった。 東洋人と見るとすぐ話しかけてくる連中がいた。私は彼らを「オリキチ」と呼んでいた。 オリエンタル・キチガイの略だ。私はジョージ・コーホンもオリチキの一人だろうぐらいにしか思っていなかった。 不思議と私は彼から好かれた。馬が合うとでも言うか、なんでも話せる仲になっていた。 ジョージ・コーホンは年齢的にも私と同じぐらいだ。そのうちに彼の素性が分かりびっくりした。じつは、ジョージ・コーホンは若干31歳でトロントでは既に有名な若手実業家だったのだ。 アメリカ・マクドナルド・レストランの創業者レイ・クロック(Ray Kroc)からカナダ・マクドナルド法人のジョージョ・コーホンが持っているライセンス(権利)を株式交換により100万ドル(現在の価値で約1億777万9,642円 / 7月26日調べ)で買収案に応じ、ジョージ・コーホンはカナダ法人の終生社長兼CEOに就任した。と、同時に海外にマクドナルド・レストランを展開する総責任者となった。 1970年にマクドナルド・レストランはトロント市内に第一号店をオープンした。私もその式典に招待された。錚々たる政界や財界の著名な顔ぶればかりで、私は場違いな感じがして隅っこの方で小さくなっていた。 その第一号店オープンから、あれよあれよという間に、トロント市とその周辺にあっという間に200店舗を展開、「雨後のマッシュルームのようだ」とメディアで盛んに称えられた。
 私は1969年の夏を過ぎた頃から、マクドナルドの広いオフィスにあるジョージ・コーホンの社長室に頻繁に呼び出されるようになっていた。それは日本語の手紙を訳してあげるためだった。手紙の主は将来日本マクドナルド・レストランの社長となるであろう「藤田田(でん)」という人からだった。秘密保持のためか藤田田(でん)さんからの手紙は全て日本語で書かれていた。私は英和辞典と和英辞典を携えて一字一句づつ訳してあげたのだった。急を要する時は夜間でもジョージ・コーホンの自宅へ呼ばれた。 こうして私は日本マクドナルド・レストランの創業前の成り行きを垣間見ることが出来た。1971年7月、やがて日本のマクドナルド・レストラン第一号店が東京銀座にオープンした。 ただ、最初に問題になったのはマクドナルドの「呼称問題」だった。 英語式発音では「ド」にアクセントがくるような感じで、「メックド~ノ」と4音に対し、日本式発音は「マ ク ド ナ ル ド」と6音になる。私はジョージの前で何度もなんども日本式の発音をやらせられた。ジョージはどうしてもカナダ式4音の発音「メックド~ノ」を推し進めようとしたが、私は日本人にその発音は「絶対に無理」と進言したのだった。 ところで、私は外部の人間で唯一アポなしで本社の社長室に自由に出入り出来るようになっていた。思い返せば、彼は「大事なミーティングがあるが、金がないのでヘヤーカットが出来ない。」ジョージは事業に失敗したとも話していたので、私は可哀想になりタダでヘヤーカットをしてあげた。(後で分かったが、ジョージに私の人間性を試されたみたいだった。) ヘヤーカットした場所は人通りの激しいヨークビル街の歩道だった。そこにはレストランの外側に設置されたテラスがあった。ジョージの親友で著名なトロント・サン新聞のコラムニストでポール・リムステッド(Paul・Rimstead)が昼食の最中だった。当然のようにその模様は翌日のトロント・サン新聞のコラムに掲載されるや私とジョージは一躍話題の中心人物となった。(とくに、ジョージは人をびっくりさせる悪趣味を持っていた。)今だったら政府の衛生局からお咎めを受けただろうが、当時は鷹揚だった。
 ジョージ・コーホンと親密な交際をするようになってから私の身辺にも変化が起きた。 私がジョージ・コーホンの親友ということでユダヤ系のカナダ人が芋蔓式に次々と紹介されユダヤ人の知り合いや友達が増えていった。ユダヤ人の仲間意識は日本人以上だ。それと、日本人にも似て義理人情が厚い。(ギブ・アンド・テイクだが・・・) ある時、日本のマクドナルドの社長・藤田田さんとの友情に何か日本人が喜ぶ記念品を贈りたいとジョージから相談を受けた。高価なものがいいとジョージの提案で、即座に私は「頭(かしら)付きホッキョクグマの毛皮の敷物」と答えた。しかし、それを日本へ送るにはいろいろな制約があって簡単ではなかった。紆余曲折を経て贈ることに成功した。「ワシントン条約」決議採択の前の年だった。しばらくして、ジョージには日本の藤田さんから、返礼として兜付きの甲冑一式が届き、私はその組み立てを手伝ってあげた。 また、ある時はジョージの依頼で、藤田田さんがトロント訪問の際に、ワイフと一緒に着物を着た茶道の経験者10数名の美女たちを集め「野点」をアレンジしてあげた。藤田さんは「本格的な野点」に大変に感嘆した。その数年後、藤田田さんはトロントの繁華街に、日本人オーナーとして初めて「日本人のマクドナルド・レストラン」をオープンしたのだった。(後にカナダ・マクドナルドの直営店になったが、その時期は失念した。)
  ところで、私は口の悪い日本人の友人から「ジミーはジューイチだ。」と、よく揶揄われた。ユダヤ人のことを「ジュー」というが、ジミーはその上を行くから「ジューイチ」というわけだ。 例えば、ジョージ・コーホンに紹介された方で当時オンタリオ州々政府の大蔵大臣だったユダヤ系人のアラン・グロースマンのおかげで、カナダへ来て最初の住宅を購入できた。 そこは、トロントで初めての高層35階建てコンドミニアム(マンション)で、私は22階のバルコニー付き広い2LDKの一室を好条件で購入できた。窓からはオンタリオ湖対岸の水平線上にアメリカ側が遠望できて見晴らしは良い。だが、私には目も眩むような高さでバルコニーに立つのが怖かった。 また、生きている牛を100頭購入し、牧場で飼育しながら精肉に加工するビジネスを始めたのもその頃だった。 ジョージ・コーホンが後ろ盾ならといろんな仕事が舞い込んできた。カナダ国営放送(CBC)の国際ラジオ短波放送のアナウンサーもその中の一つだった。 1975年に私はカナダで初めての日本語ラジオ放送を始めたが、この頃、私はジョージ・コーホンにかなり刺激を受けていた。 そして、忘れもしない1975年に彼がカナダ市民権を取得するというので、何の躊躇いも無く私はジョージ・コーホンと同じ日に裁判所に出向き、カナダ市民になることを彼と一緒に誓ったのだった。 また、その頃になると私はいつもビッグマックをタダで食べていた。それは、彼のビッグマックの写真入りの名刺だった。氏名、連絡先の他に二つ折りを開けばそこに大きい文字で「Be my guest」(どうぞご自由に)ビッグマック食べてください。と印刷してある。私は社長室へ行く度に彼の秘書から何十枚と貰って帰るのが習慣になっていた。 1976年になり、私はジョージから突飛な提案を受けた。 それは印刷業をやらないかと言う意外な相談だった。カナダへ来て印刷業なんて考えてもみなかった職業だった。 じつは、旧ソビエト連邦へのマクドナルド進出を、ジョージ・コーホンは模索していたのだった。 しかし、これを推進するためにはロシア語の印刷とそれの秘密保持がどうしても必要だった。それをこの私にと提案して来たのだった。 (第二部へ続く)

(編集長のコメント)いやービックリ、なんちゅー人生なんでしょう。天下のマクドナルドとどう関わっていくのか、第二部もお楽しみに!