お便り/私のファミリーヒストリー
つい最近カナダでは、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終了した。これは鎌倉幕府の2代将軍源頼家を支えた13人の御家人の物語で、鎌倉幕府の最高指導者である執権の北条義時が武士の頂点へと上り詰めるまでの波瀾万丈な鎌倉幕府初期の様子を描いたもの。
じつは、登場人物の中に「狩野家の始祖」が混じっていて、これを知った時は大変に驚いた。その人物は「工藤茂光」という武将で、仙台市出身のハリウッド俳優・米本学仁が演じていた。
数年前、狩野家のルーツに関する資料が、仙台市在住の兄からカナダに送られて来た。兄の狩野栄喜は仙台の銀行を定年退職した後、仙台市立博物館の学芸員となり歴史の研究を続けながらローカル・テレビでは「歴史講座」などを担当していた。その傍ら狩野家の歴史も調べていたらしい。送られてきた書物には、かなり古い狩野家のヒストリーが書かれていた。
「狩野氏(うじ)は古代から安土桃山時代の小田原征伐に至るまで武家として活躍した。末裔は全国に散らばっている。伊豆狩野家、奥州狩野家など、画派の狩野派らはみな工藤茂光の子孫である。」そして、「平安時代末期の武将、豪族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。伊豆の大族にして狩野氏の祖」また狩野の名は、「工藤氏が拠点としていた伊豆国の狩野荘(現在の狩野川上流、太平柿木付近)に由来する。」と書かれてあった。
ところで、カナダに来てから40数年振りに私は初めて訪日した。その時、新婚旅行で行った伊豆半島の思い出の場所を訪れた。「修善寺」から「浄蓮の滝」周辺を何気なく旅したが、まさかその場所にかつて狩野城があり、そこが狩野家の始まりだったと、兄の送ってくれた古文書で知ることになった。「狩野家は伊豆大島を含む伊豆半島のほぼ全域を所領した。」と古文書には書かれていた。古文書を読んで初めて狩野家の歴史を垣間見ることになった。鎌倉時代に書かれたという古文書「吾妻鏡」には歴代狩野家の名前があった。しかし、私は、私の先祖が宮城県栗原市の高清水周辺が発祥の地だと思っていた。
じつは、奥州狩野家が始まったのは、源頼朝の命を受け奥州藤原基衡氏征伐に参戦した工藤茂光の子で名前を狩野に改めた狩野行光だった。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、源頼朝は御家人たちに守護や地頭として所領を与えた。その中に狩野氏が入っていて、現在の宮城県栗原市一迫周辺を所領したと記されていた。 古文書を見ると「狩野行光」が奥州狩野家の始まりであることが解る。
さて、兄が送ってくれた狩野家最古の戸籍謄本を見ると明治四年が一番古い。戸籍謄本は明治時代になってから制定されたようだが、明治になる前の戸籍関係は地元のお寺が管理し、過去帳には御先祖代々の名前などが記載されているという。また宮城県で発行された最近の電話帳を見ると栗原市に1900世帯の狩野家が住んでいる。これを見ても当時奥州狩野家の中心が栗原市周辺だったことが伺える。
しかし、時代の変遷と共に狩野一族も栄枯盛衰を繰り返し時代の波に翻弄されてきた。伊豆狩野家は平安時代から約450年栄華を極めてきたが、同族伊東氏の裏切りによって1497年の北条早雲との戦に敗れ狩野城を明け渡すことになった。しかし、北条早雲の温情を受け狩野一族は小田原に移封されたが、その後豊臣秀吉の小田原攻めで北条家、狩野家共に1590年に滅ぼされ、戦国武将としての伊豆狩野家はここで歴史の檜舞台から消え去って行く。奥州狩野家も、小田原攻めに参戦しなかったことを理由に豊臣秀吉の奥州仕置にあい改易させられるが、伊達政宗の庇護を受けながらも奥州狩野家の家系を何代にもわたって脈々と受け継がれてきた。
ところで、豊臣秀吉の小田原攻めより遡ること150年前の西暦1434年、狩野家の一族に狩野影信という人物が時の将軍足利義教に見出されて颯爽と画壇に登場する。その後、室町幕府の御用絵師となった狩野正信は狩野派の祖となり、元信、永徳、山楽、探幽など多くの絵師たちと共に約4世紀にわたって日本の画壇をリードして来た。武士としての狩野家は途絶えたが、狩野家一族の血は絢爛たる画風と共に今に輝いている。
【ちなみに、狩野正信(学者)とyahoo で検索し出てくるのが私の弟です。】
ジミー狩野(牧男) カナダ・トロント