お便り/9月号の未掲載分+α
レクチャー「私のチャレンジ精神」
ジミー狩野(牧男) 83歳 カナダ・トロント
(これは2023年6月23日、オンタリオ州々政府主催の「シニア月間」祝賀会の講演会で話した内容を文章にまとめました。当日は日英両語でスピーチをしました。)
皆様こんにちわ 自己紹介をさせていただきます。私の名前は「ジミーかの」と申します。
『カナダに行ったら地味に暮らしなさいよ』
これが日本の羽田空港を飛び立つ時、私を諭す母の最後の言葉でした。私は母の忠告を守り、今でも「ジミー」と名乗っております。派手じゃない、地味な男、ジミーカノです。どうぞよろしくお願い申し上げます。
今日は皆様に「私のチャレンジ精神」というお話をさせていただきます。さて、突然ドクターからあなたの両足を切断すると言われたらあなたはどうされるでしょうか? きっとあなたはご自分の耳を疑い、狼狽(うろたえ)、そして、恐怖心で頭の中が真っ白になってしまうことでしょう。私も同じことを経験しました。その時、私は意識を失い倒れてしまったため、病院に緊急搬送されたのです。7〜8時間たった頃でしょうか、突然ドクターから「あなたの足は腐っている。」と言われ、「両足切断」との勧告をされてしまったのです。それまでは朦朧(もうろう)とし死のふちを彷徨(さまよ)っていました。じつは、40年以上も患っていた糖尿病が悪化し、低血糖症を起こし、買い物の最中に気を失いその場で倒れてしまったのです。そのまま、私はスカボロー・ジェネラル・ホスピタルへと緊急搬送されたのでした。(註;スカーボロー・ジェネラル・ホスピタルは、トロント東部地区にある最大の総合病院)それから私は悪戦苦闘しながらその腐っている足から解放されるまで、私は病院の医療スタッフの忠告を忠実に守り、やっと壊疽(えそ)から解放されたのです。このチャレンジは、快復するまで6年以上も掛かり、私にはとても過酷なものでした。
さて、みなさん、私はもともとチャレンジ精神が旺盛な男です。子供の頃から外国へ行きたいという夢があり、私は宮城県の片田舎から家出して一人で東京へ旅立ったのです。じつは、親父に海外渡航を猛反対された挙句の果てに勘当されてしまったのです。しかし、私は家族との絆を断ち切ってまでも自分の夢を叶えてみたかったのです。そして、途方もなく長い私の放浪生活が始まりました。私はまだ16歳の時でした。これは実現不可能でなかば諦めかけていましたが、この挑戦にはじつに15年も掛かってしまいました。私は15年間という当てのない放浪生活をし、一度は海外渡航を諦めるつもりで結婚までしました。それは、当時海外渡航は夢のまた夢と諦めていましたが、結婚したらその夢を完全に忘れられるだろうと思ったからです。ところが、みなさん、子供の時からの夢がとうとう実現したのです。1965年、私に奇跡が起こりました。それは、カナダ連邦政府が日本からの移民政策を変更し、新たに日本人移民を受け入れる新しい政策を発表をしたからです。しかし、外国行きをどうしても嫌がるワイフを離婚覚悟で宥(なだ)め、どうにかトロントに辿り着いたのでした。その時、私は30歳を過ぎていました。現在、私はワイフと共にカナダ人として54年間も幸せにトロントで生活しております。
ところで、私の趣味は魚釣りです。みなさんの中にはご存知の方もおられるでしょうが、オンタリオ州には「幻の魚」と称される超巨大魚のマスキーという魚が生息しています。この魚を釣り上げるには、キャスティング一万回、トローリングだと5千時間以上挑む必要があると言われております。マスキーは、オンタリオ州の州魚にも定められているばかりでなく、当地の釣り師たちの憧れで、また釣りの対象魚の中では釣るのが最も難しい魚です。この魚はベテランの釣り師でも、釣ることがほぼ不可能な魚とも言われております。しかし、私はその魚を釣ることに挑戦し、約30年掛かって巨大な「幻の魚」を仕留めることに成功しました。体長は5フィート(約145cm)、重さは50ポンド(22kg)ありました。これは1997年に北米で釣り上げられた淡水魚の中では最大級と正式に認定されました。この魚を釣り上げた途端、私の名前と顔がカナダ中、いや北米大陸の釣り師たちの間に広まってしまいました。
しかし、この巨大魚を釣ってから、私は「うっ血性心不全」という厄介な病気になってしまい約4年間の闘病生活を余儀なくされたのです。結局この病気のために、私は魚釣りから遠ざかる結果となってしまいました。「湖(みずうみ)の主を釣り上げたものは必ず病気になる。」という、地元の釣り師たちの間で昔から囁かれていることを思い出していました。
さて、みなさん、84歳になった私は現在歩くことに挑戦しております。私が入居しているモミジ・レジデンスでは4月中旬から「カナダ横断・歩き旅」というプロジェクトが始まりみなさんで歩き続けております。これは地図上の主要都市をめぐる仮想のカナダ横断です。高齢者には一日一万歩を歩くことは多すぎるとよく言われております。私は挑戦を続けており、毎日一万歩以上歩いております。ただ、今でも杖が必要ですが…。このチャレンジには大きな目的があるのです。それは来年日本を訪れる予定ですが、日本で我々の結婚60周年を祝うためです。日本ではどうしても杖なしで歩き回りたいのです。私はそれを実現させるために日々努力をしております。日本語には「念ずれば、花ひらく」という言葉があります。これは目的を持って努力すれば、必ず夢は実現するということです。
チャレンジとは・・・すなわち何事も諦めず最後までやり抜く精神かと思います。今日は「私のチャレンジ精神」というお話をさせていただきました。いかがだったでしょうか?失敗することはとても辛いことです。しかし、みなさん、挑戦をしなければ何事も成就することはありません。さあ、みなさんも何かにチャレンジしませんか?そして、老後の生活を大いに楽しもうじゃありませんか、みなさん!いつまでも、いつまでも皆様が健康で長生き出来ることをお祈りしております。ご清聴どうもありがとうございました。
入院してハッと気付いたこと
吉田千秋 92歳 大阪府豊中市
※この文章は9月号に掲載されているものの原文となります。限られた紙面であるため、ほとんどのお手紙は大なり小なり削らざるを得ないのですが、原文の方が味わい深いものがたくさんあります。そういったものも、このホームページを活用してご紹介できればと思っています。
婆さんは、今年も風邪をひいた。2月の中旬から、夜布団に入ると空咳が激しく出た。主治医の所に毎日点滴に通う。なかなか治まらない。2月24日、その日も朝から雨だった。電話をかけてもタクシーはつかまらない。困りはてていると、ケアマネさんが来て、空車を見つけ、バイクで誘導してきて下さった。
主治医の所に着く。医師は婆さんの顔を見るなり「入院」と仰った。救急車の中で酸素マスクを付けられた。病院に着いて、バタバタといろんな検査をされたように思う。
婆さんは、入院するなんて思わずに自宅を出てきた。スマホも忘れ、財布にも小銭しか入っていない。婆さんはカード派だ。担当医に、タクシーでスマホを取りに帰りたいと何度も頼む。然しお許しは出ない。部屋は4階の個室に決まった。部屋代は1万2220円。窓も広く明る<快適。洗面器が取り付けられていてトイレもある。婆さんは此の期に及んでも、自分の病気の重さの自覚がない。ベッドに横になると、点滴の管が左の腕に24時間繋がれている。鼻には酸素の管が24時間付いている。病名は間質性肺炎。婆さんの入院3日後に、料理の鉄人陳さんが同じ病気で亡くなった。67歳の命だった。点滴の管に繋がれ、鼻には酸素マスク、それでも婆さんは自分が大変な病気にかかったと言う自覚がない。
2月26日に長男がスマホとタブレットを届けてくれた。届けてくれたと云っても、この病院もコロナゆえ面会は出来ない。婆さんはタブレットを開き早速LINE仲間に交信する。次男から桜の動画が届く。お花見弁当は美味しそう。ちらし寿司だ。婆さんは家庭で作るちらし寿司が好きだ。動画には桜餅もある。婆さんは桜餅も大好きだ。次々と桜の写真がLINEに届く。婆さんはその写真や動画を仲間に転送する。一番早く沢山のお花見をしたのは入院中の婆さんのように想う。
自宅ではお菓子を食べない婆さんが、何故かめちゃめちゃ甘い物が食べたくなる。「薬の副作用」と薬剤師さんから教えられた。娘のいない婆さんは、岐阜の若いママさんにおねだりする事にした。チョコレート、クッキー、コーヒードリンクなどなど。コピー用紙、五色入りのボールペンも頼んだ。お菓子は夜中に起きてまで、むしゃむしゃ。タブレットで音楽を聴く。今や婆さんの大親友は、タブレットだ。
この病院は担当医は勿論、看護師さんも掃除の小父さん小母さん達がみんな明る<親切だ。婆さんは快適な日々を過ごす 。3週間目にシャワーを浴びる。酸素の管は相変わらず鼻についている。ひさびさにシャワ ーを浴びて気分爽快。病室に戻りコピー用紙に看護師さんへお礼状を書いた。色ボールペンで花束を書いて添えた。婆さんは気軽に書いたのに、看護師さんは喜んで下さりナースセンターに貼ってあると言う。
今回の入院で気付いた事があった。婆さんは高齢になっていたのに、入院に必要な用意を全くしていなかった。これは高齢者の心得ごとでは無いだろうか?今回は緊急入院でパジャマ、タオル、バスタオル、紙パンツ、歯ブラシ等はリースで何とか間に合わせたが、日頃から用意しておく必要を実感した。着替えだけでなく、メモ用紙(コピー用紙)ボールペン。爪切り。ハサミ。S字金具(ベッドに物を吊り下げる時に便利)、スマホ、ヘアブラシなど等を玄関近くの取り出し やすい所に置いておく。
婆さんの部屋には広いガラス窓がある。朝には朝日がさし、雀の鳴き声が微かに聞こえる。夜には遠くの民家の灯りがまばたく。婆さんの頭には、その時々でひとりでに詩が浮かぶ。
夜があけた
病室の窓にも 夜が明けた
朝もやの中 太陽が顔を出す
広い窓に お日さま きらきら
婆さんの顔に 笑顔ニコニコ
しわしわの手
しわしわの婆の手
生きて来た手と 人は言う
苦しみも 悲しみも 笑顔に変えて
幼子を育てた手
老いた手を しみじみ 眺める
92年歩いた手を 光りにかざす
生かされた命
生かされた命 助けられた命
担当医 沢山の看護師さん
栄養士さん 掃除の小父さん
小母さん達 多くの人に
助けられた 命の贈り物
無駄に出来ない92歳の命
さあ〜第2の人生の船出だ
挫けることなく 前進前進
感謝と言うお守りを胸に!
婆さんの入院生活は40日だった。酸素ボンベ持参での退院になる。介護タクシーでの帰宅。自宅用には玄関の中に大きい酸素の器械が据え付けられた。鼻に酸素の管を付ける。酸素の管は部屋の中を蛇のように婆さんの後に続く。この酸素の管は1日24時間、婆さんの鼻に付いている。入浴時も睡眠時も…。外出どきは小さな酸素ボンベを持参するが、酸素量が少ないので遠くへは行けない。