お便り/7月号の未掲載分
アナウンサー誕生秘話
ジミー狩野(牧男)84歳 カナダ・トロント
今日は面接の日だ。 部屋に入るとお偉いさん風の人たちが、5人ほど横一列に長テーブルを前にして座っていた。 ここは「カナダ国営放送」(CBC)の一室。たどたどしいが少し日本語の話せる人が私に指示をしてきた。 「何か日本語を話しなさい。」 セリフもなしに藪から棒に話しなど出来るわけがない。そこで、一計を案じ、よく知ってる日本昔話の「桃太郎」の話を思いついた。さも子供に言い聞かせるように、大袈裟にわざと抑揚をつけてゆっくりと話した。 数日後、合格の知らせが「CBC」から届いた。奇跡が起きた。 じつは、最初からダメもとで挑んだアナウンサーのオーディションだった。 素人のアナウンサー誕生だ。だが、いつでも首になる覚悟は出来ていた。
カナダのCBCといえば、日本のNHKと同じようにカナダを代表する国営放送。日本向けの短波ラジオ国際放送の「ラジオ・カナダ・インターナショナル」というカナダの短波ラジオ国際放送だ。 しかし、当時のカナダ人はみんな鷹揚だった。 「あなたの声は低音でラジオ向きだ。」確かに私の声は昔から低音だった。たったそれだけの理由でアナウンサーの試験に合格するとは・・・それからが大変だった。 世の中、捨てる神もあれば拾う神もある。 あまりにも偶然だった。
じつは、我々と同じコンドミニアム(マンションと同じ)に住むご家族にNHKで元アナウンサーをされていた方がいたのだ。 完成したばかりのコンドミニアムへ引っ越して以来、すでに我々とは家族ぐるみのお付き合いをしているご家族だ。 その奥さんは、鹿児島県のご出身で東京の昭和女子大を卒業され、東京でNHKのアナウンサーをされていた。 英国人と日本で結婚され、我々と同じ頃にカナダへ移住されたのだった。 しかし、残念ながらその10数年後にその奥さんとご主人は癌で他界されてしまったが・・・ご夫婦が他界されてから、彼らの子供たち3人は我が家の家族同様に世話をして来た。
(注:本誌2024年2月号、ウエブ特典;「私はゴットファザー!」をご覧ください。) https://miyagi-silvernet.com/お便り%EF%BC%8F2月号の未掲載分/)
亡くなる前、その方から私は話し方や発声法などの特訓を受けた。 教科書は「NHKアナウンサー読本」で、基礎のアイウエオアオから習った。 発声、発音、敬語、姿勢などは徹底的にアドバイスされた。 ドロ縄式の真剣勝負だった。 とにかく、私の話す日本語には東北訛りがあった。それを約6ヶ月間の特訓をしてくれたのがその奥さんだった。 当時、私は英語を話すことは出来なかったが、CBC のアナウンサーの肩書きを持っているだけで、それからの私の人生に大きな影響をもたらすことになった。 しかし、私のCBCのアナウンサーの仕事は、カナダ短波ラジオ国際放送局の本部がトロントからモントリオールへ移るまで約10年間も続き私は退局した。 さて、トロントは国外で生まれた移民の割合が、マイアミに次いで世界で2番目に多い都市と言われている。そのためトロントは「人種のモザイク」と称される。(ちなみにアメリカは「人種のるつぼ」という。) 私は、日本から何の情報も届かない隔離されたようなトロントの日系人社会に、何か日本からのニュースや音楽など、日本的な娯楽などを提供できないものかとCBCのアナウンサーをしながら日本語のラジオ放送を模索していた。 素人から始まった私のラジオアナウンサーだったが、5年も続けていればどうにか様になっていた。 その頃は、トロントには日本の雑誌や新聞、カラオケもなければインターネットなどもなかった。テレビは全部カナダやアメリカの番組ばかり、日本的で唯一の娯楽といえば、「男はつらいよ」の寅さん映画が6ヶ月ぐらい遅れて南米から巡回してくるぐらいだ。完成したばかりのトロント日系文化会館まで家族揃ってしかも弁当持参で映画を観に行ったものだ。当時トロントに住む日系人はまるで島流しにされたように我慢を強いられていた。というか食べ物も娯楽も日本的なものは全部諦めてのカナダ移住生活だった。
ところで、トロントには「C H I N インターナショナル・ラジオ」というラジオ放送局がある。要するに多言語ラジオ放送で世界各国の言葉で放送している。ただ、なぜか日本語の番組だけがなかった。 ある日、私はその放送局の社長 ロンバード氏に面会を申し込んだ。 日本語放送を「やらせてください。」と持ちかけては金がかかる。これを「やってあげよう。」と言ったら、金はかからない。妙案だ。早速、その放送局の社長に直談判に行った。 一応私の肩書きとやってることは、短波ラジオ放送でも業界では泣く子も黙るカナダの国営放送「CBCアナウンサー」なのだ。 その社長に、開口一番「今日は苦情を言いに来た。」と、切り出した。 社長は訝る様子だったので更に続けた。「あなたの放送局は世界各国の多言語放送なのに、どうして日本語番組だけがないのか?」とぶつけてみた。 案の定、彼「誰も日本語放送の開設にヘルプをしてくれる人がいない。」と言ってきた。それが私の思う壺だった。 「私がお手伝いしましょうか?」この一言で、なんと一年間の試験ラジオ放送が簡単に決定したのだった。 1976年(昭和51年)5月4日に試験放送が開始され、私の第一声が電波に乗った。「ザ・サウンド・オブ・ジャパン」という日本語ラジオ新番組がトロントの半径250km以上のオンタリオ湖を越えてアメリカにまで電波が届いた。当時完成したばかりの世界一のCNタワーから私の声が電波に乗ったのだ。 ある日、「ジミー知ってる? 新しく出来た日本語ラジオ放送を。 カノーマキオって誰だ?」と、私の親友が矢継ぎ早に尋ねてきた。咄嗟に私は「そんなヤツ知らねえなぁ。」と惚けたふうに答えた。 私はラジオの時の声は教えられた通り、顎を引き腹の中から声を出すので私の声は電波に乗ると余計低音になる。 親友はじめ知人たちは、私の声に気づく人は誰もいなかった。ましてやトロントでは誰一人私の日本での本名「カノマキオ」を知ってる人はいなかったからだ。 こうしてトロント周辺で日本語ラジオ放送の「カノーマキオ」が約半年ぐらい一人歩きしていた。 当初、日本からのニュースはトロント・アマチュア無線同好会の協力で東京からのニュースを傍受させてもらった。特に新い演歌などのレコード盤は、大阪の朝日放送ラジオ(現・ABCラジオ)のお昼の番組に国際電話で生出演する見返りに使用済みレコード盤を空輸してもらった。 このようにトロントの日本語ラジオ放送も紆余曲折を重ねながら20年間も続いた。 やがて時代は変わり、インターネットの時代になり日本のテレビ番組も簡単に見られるようになった。 こうして時代の変遷と共に、1996年(平成8年)トロント日本語ラジオ放送にも終止符が打たれた。
憲法改正議論は自民党の延命政策か?
水戸秀雄 89歳 青葉区栗生
共同通信社はこの程憲法記念日を前に、憲法に関する世論調査結果をまとめた。岸田文雄首相が9月までの自民党総裁任期中に意欲を示す憲法改正の国会議論に関して
[急ぐ必要がある]33%
[急ぐ必要はない]65%
改憲の進め方は
[慎重な政党を含めた幅広い合意形成を優先すべきだ]72%
[前向きな政党で条文案の作成に入るべきだ]24%
9条改正の必要性は
[ある]51%
[ない]46% との結果が出ました。
日本国憲法が施行されて77年国際情勢や時代の変化に伴い、安全保障の在り方や同性婚など人権に関わるテーマが喫緊の課題となっています。 憲法改正の本丸と言われている9条では軍隊と戦力の保持を禁止しながら、実質的には軍隊と戦力を保持しています。このように時代にそぐはなくなり改正の必要性に迫られても自民党政権は[改憲][改憲]とかけ声だけでこれまで憲法改正原案を国会に一度も提出すらしておりません。ある識者は自民党が憲法改正に消極的な理由を[党内にも護憲派が存在し改正を強行すれば、党が空中分解するおそれがある。憲法改正議論は自民党の延命政策]と解いています。憲法改正はわが国の未来の命運を占う重大案件です。国会において慎重審議し、統一した改正案を提示し、分かりやすく我々国民に説明をお願い致します。