お便り/8月号の未掲載分

英語のエの字

ジミー狩野(牧男)84歳  カナダ・トロント

 親切なカナダ人が、「この中から好きな人を選べ」と、3人の名前を持ってきた。 一人目はミセスなんとかさん。二人目はミスターなんとか、そして3人目がミス誰々。 私は当然のように3人目の「ミス誰々」を即座に選んだ。金髪で若くて可愛いしかも青い目のボイーンちゃんを想像してのことだった。 カナダに来たばかりの頃、私は英会話がまったく出来なかった。 それを見かねた親切なカナダ人が、私に英語の家庭教師を3人も探して来てくれたのだった。 その頃、トロントはイタリア人の移民が多く、どこへ行っても街中イタリヤ語が飛び交っていた。夜間の英語学校へ通っても、クラスはみなイタリア人ばかりで、おかげで英語よりもイタリア語で喧嘩が出来るようになっていた。 私は英語学校へ行ってもイタリア語を覚えるぐらいなら意味がない。と、さっさと英語学校を諦め英語の家庭教師を探していたのだった。 「ミス誰々」に会える日がやって来た。 その日は、朝からルンルン気分でさも初恋の彼女にでも会いに行くようで落ち着きがなかった。 教えられたアパートに着くと、そこは古めかしいが重厚感のある建物だった。 高鳴る胸をおさえながら部屋の前に立ち、ドアのベルを押した。 意外なことに出て来たのは老齢だが上品で白髪の二人のおばあちゃんたちだった。 居間に通された私はいつか現れるであろうミスなんとかさんの「青い目の若いボイーンちゃん」をソワソワしながら心待ちにしていた。 しかし、その上品な二人のおばあちゃんたちを相手に、小一時間ばかり辿々しい英語で世間話をしていたが、若いミスボイーンちゃんは一向に現れる気配がない。 そのうちに、なんだか分からないが居間からドアに誘導された私は、丁寧に「さようなら」と追い出されてしまった。 なぜか釈然としないまま、どうにも納得がいかなかった。 数日が経ち、英語の出来る友人に頼んで私の気持ちを、先生たちを探してくれたカナダ人に伝えてもらった。 返ってきた答えに私は愕然としてしまった。 挙動不審の私には個人レッスンを辞退したいと「ミス誰々」が言って来たという。 じつは、私が心待ちにしていた「ミス・ボイーンちゃん」は、なんとあの上品な二人のおばあちゃんたちだったのだ。 迂闊にも私は忘れていたが、カナダやアメリカの習慣で老齢になっても独身ならいつまでも「ミス」なのだ。 彼女らは双子で独身の姉妹だった。 経歴を知って、私はさらにびっくりしてしまった。 姉妹は東京のお生まれで戦前戦後を通して約40年間も東京の昭和女子大と津田塾で教鞭を取られていたと言う。太平洋戦争が始まり彼女らは最後の帰還船でカナダに戻り、終戦までトロントで暮らし、終戦後すぐ東京へ戻られたという。 さらに御尊父は、1896年から東京青山学院大学の学長をされていたミスター・チャペルという方だという。 そして、大学を定年で退官されたお二人は日本を離れカナダへ戻られて、トロントで余生をお過ごしとのことだった。 それよりも驚いたのは、ミス・チャペル姉妹は皇族方の個人的な英語教師として名高く、姉のメアリー・チャペル先生は現在の上皇太后美智子さまの英語の個人レッスンを務められたという。 なんと言うことか、それ以後、私はこのご無礼を謝らなくてはと日夜悩むことになる。 このままでは親切なカナダ人の顔にも泥を塗ることになる。 先生方にお会いして謝りたい、と言っても会ってはもらえないだろうといろいろと策を練った。 お詫びのカードを添えた花束をドアの前に置くことにした。それを3日間続けた。 4日目に花束を抱え、私は思い切ってドアをノックした。 手には友人に英訳してもらった謝りの手紙も持参していた。 とにかく、私は性懲りも無く日参を続け、やっと一週間目に居間に通されたのだった。 そして真剣に訴える様子に根負けしたのか、先生方から交互に最初週2日間の個人レッスンをして貰えることになった。 英語の発音は妹のコンスタンス・チャペル先生から徹底的に鍛えられた。 「英語のエの字」も分からぬ私には、A B C からの発音練習だった。 姉のメアリー・チャペル先生からは、語彙を増やすため英語の新聞を毎日読むようにと宿題も出された。 分からない単語はノートに書き写すようにと言われたが、英語はまるで分からないので、簡単で短い記事を選んでは新聞記事を丸写しにノートに書き写すのが日課になっていた。 先生方からいつまた破門になるかと、それを案じながらの猛勉強だった。 とにかく私の英語訓練は生活がかかっている。学生時代だってこんなに勉強したことがあっただろうか? 英語のエの字から始まった私の英会話も、3年目になると日常会話には不自由を感じなくなっていた。 ただ私は一度だけ大きな間違いを犯したことがある。 それは英語で喧嘩をする時に言う、女性には決して使ってはいけない四文字を書いた悪い言葉を書き連ねたノートブックを先生方の居間に忘れて来てしまったことがある。 「こんな言葉を覚えるなら明日から来なくても良い。」と、叱られたのだった。 厳しい英語の訓練は続いていたが、おかげで私は先生方の最後の生徒になることが出来た。 それを3年間続けた私は、英語にも慣れ、日常会話の英会話もどうにか不自由を感じなくなっていた。 ある日、長女を出産したばかりのワイフの見舞いに訪れたコンスタンス先生が、流暢な日本語のしかも山の手言葉でワイフと話しているではないか。 コンスタンス先生が日本語で話しているのは当然のことだ。日本では東京の山の手のお生まれだったのだ。 私にはそれまで一切日本語を使わずに、3年間英会話の指導をしてくれたのだった。 やがて子供達が成長し家の中の会話が日本語から英語に変わる頃には、親の話す英語の発音がおかしいと子供達が親父をバカにするようになってきた。 日本語で怒鳴っていた頃は親父の威厳も保たれていたが、子供達が英語で話すと親子の立場が逆転する。その頃は威厳がなくなり真剣に悩んだ。もう一度子供達に日本語で怒鳴ってみたい。 「ダディの話す英語をなんと心得る。恐れ多くも先のエンパレス(上皇后美智子妃)の英語の先生に習った英語であるぞ。頭が高い、ひかえおろう!」と・・・・ 当時、日本のテレビでは水戸黄門が流行っていた。 子供達も小学生になりやがて高学年になる頃には、親の立場がまるっきり逆転し子供に英語の間違いを教えてもらうようになっていた。 だから英語で話す時は子供にバカにされまいと気を遣う。しかし、子供達には私の自慢はわからないだろうなぁ。 私の話している英会話には、少しだけ日本の皇族方と同じ英語を話しているという自負の念がある。