お便り/12月号未掲載分

料理と私

ジミー狩野(牧男)84歳  カナダ・トロント

 たった一本の電話で、私は料理の修行を始めることになってしまった。 それはワイフから予期せぬ突然の電話だった。 当時(1985年頃と記憶しているが・・・)、ワイフはオープンしてまもない、トロントでは本格的な懐石料理の純和風料理店「波レストラン」の女将として働いていた。 その電話というのは、「皿洗いの係りが3人全部急に辞めてしまったので夜の営業が出来ない。すぐ来て助けて欲しい。」という緊急要請の電話だった。 私は昼間はヘアスタイリスト(美容師)として働いていた。 ただ、夜はレストランの閉店後ワイフを迎えに行っていたが、それまでは自由時間があるのをワイフは知っていた。 もともと私は料理をするのが好きだった。 それは若い頃に家を飛び出したため、放浪生活が長かった。 とにかく、貧乏で自炊しながらなんとか糊口を凌いでいた。 話は余談になるが、結婚する時になって、ワイフは「私は今まで台所に立ったことがないので、料理が全然出来ない。」と、話していた。 それを私は話半分に聞いていた。「どうせ料理が下手なのを隠す口実で自己防衛だろう。」ぐらいに思っていた。 「大丈夫、料理は全部ボクに任せなさい!」この一言が未だに尾を引いている。 うっかり余計なことを言ってしまったと未だに後悔している。 これがええ格好しいの最悪で最大の欠点だ。「覆水盆に返らず」とはこのことか。 ところで、新婚旅行から帰り、最初のワイフの手料理を楽しみに期待していた。しかし、出てきた料理は「団子汁」だった。結婚して最初のご馳走が「ダ・ン・ゴ・汁!?」、私はあっけに取られた。 私は何が嫌いかと言って「団子汁」ほど嫌いなものはない。それは戦後の食べ物がなかった時代に団子汁や大根メシだの、芋ご飯のいわゆる代用食と言うやつがトラウマになっていて見るのも食うのも嫌いになっていた。 そして、旅行から帰り、2日目には私の弟が挨拶がてら遊びに来た。食事の用意をすることになって、弟は何が好きかとワイフが慌てて尋ねて来た。 「鯖の味噌煮」が弟の大好物だ。と、教えてあげた。 ところが出て来たものは、なんと「鯖のブツ切り入り味噌汁!」だった。 それ以来、我が家の料理係は当然のように私になってしまった。 さて、話を冒頭に戻すと、急遽辞めることになった皿洗いの3人組のせいで、私がレストランで働くことになってしまった。 当時の料理長は、ミシュランガイドの星を獲得したトロント日系文化会館内にある本格的な懐石料理「遊膳橋本」のオーナー・橋本昌樹氏だ。 一週間前の完全予約制で、お一人様 350ドル(約4万円)とカナダでは超高額の懐石料理だ。リピートのお客様には同じ料理を2度と出さないという徹底ぶり。 しかし、彼の料理は味もさることながら、まるで芸術作品のようで食べるのが勿体無いぐらいだ。 私は「橋本師匠に弟子入りした料理人です。」 などとは橋本さんのお名前に傷がつくので口が裂けても言えないのだが、私は米のとぎ方から徹底的に教えてもらった。それと味付けの際の分量はきちんと計るということも習った。(それは未だに実践している。) ところで、私が「波レストラン」で働き出して3日目に「もう明日から来なくてもいいです。」と、三日目でクビを言い渡された。新しい皿洗い係 が見つかったのだ。 私は料理長の橋本さんに抗議した。そして、そのまま5〜6年も強引に居座り続け、彼から料理を習った。 ところで、私の趣味は魚釣りだが、「釣り名人」という異名を貰うまでトロント周辺の釣り師の間ではかなり有名になっていた。 さて、「波レストラン」は炉端焼きが売り物で、毎日沢山の魚を扱っていた。 私は釣りを趣味としているので魚の扱い方は手慣れている。おろし方だってお手のものだ。魚の見る目も扱い方もキッチンの誰にも負けなかった。さらに、日本では理容師だったので刃物の研ぎ方は得意中の得意だった。自慢じゃないが、私の研いだ出刃包丁で髭が剃れたぐらいだ。そのせいで、すぐ下働きのヘッドへと抜擢された。 橋本料理長は、レストランの下働きとして私を高く評価してくれた。そして瞬く間に、揚げ物、蒸し物、煮物など料理長のアシスタントとして重宝され、挙げ句の果ては、炉端焼きでは焼き魚など、とうとう寿司まで握る羽目になってしまった。 余談だが、昼間のヘアーカットのお客さん達は冷やかし半分に、レストランに来ては私の握った寿司を食べたいと寿司カウンター席が連日カナダ人で満席になるほどだった。 なお、レストランでの料理修行はやはり「賄い料理」を任されて初めて一人前と言われる。なにしろ、従業員やプロの料理人たちに出す昼食や夕食を作るのだ。毎回余った材料や安価な材料でメニューを考えそして味付けも工夫する。如何に美味しく作れるか毎回テストされてるようだった。何しろ口が肥えてるシェフたちの胃袋を満たすのだ。教えられた通りの料理を出さぬと即座に文句がくる。 「賄い料理」を満足に作れて一人前だと言われる所以だ。 やがて数年後に橋本料理長は「波レストラン」を去り、私は黒のタキシードを着て黒の蝶ネクタイをしめた夜のマネージャーへと昇格した。だが、橋本氏に料理を習いたいばかりに私も波レストランを辞め、彼の後を追った。それから更に4~5年彼の元で料理の修行が続いた。 やがて、私は本職のヘヤースタイリストを引退する時期が来て、下宿屋を始めることになった。子供達が巣立ち6部屋ある寝室が空き部屋になっていたからだ。 当時、アメリカは治安が悪くなり、日本からの語学留学生は大挙してトロントにやって来た。しかし、日本食を提供する日本人経営の下宿屋がトロントにはなく、下宿屋を始めたのは渡りに船だった。 やがて下宿屋を始めて14~5年が瞬く間に過ぎた頃、コロナ騒動で下宿屋も廃業を余儀なくされた。 しかし、タイミングがすべてだと言うが、25年前に申し込んでいたモミジ・レジデンスより幸運にも「入居申請が承認された」という連絡を受けた。 今では、モミジ・レジデンスで大きなパーティーがある時はいつも「シェフ」としてボランティアを頼まれる。 これは私にとって大きな喜びだ。 健康であるかぎり、モミジ・レジデンスのみなさんのため最善を尽くそうと思う。 しかし、10数丁あった包丁や調理器具一式をモミジに来る前に全部処分してしまい、持参できなかったことが残念で悔やまれる。