お便り/10月号の未掲載分
カナダ・マクドナルド・レストラン会長「ジョージ・コーホンと私」 第二部(敬称略)
ジミー狩野(牧男)85歳 カナダ・トロント
マクドナルド・レストランの旧ソビエト連邦進出は、ある偶然から始まった。 ジョージ・コーホンは4年後(1980年)に開催されるモスクワオリンピックの組織委員会のメンバーがカナダ・モントリオールのオリンピック会場視察の際、そのツアー一行のガイドをしながら、マクドナルド・レストランへ案内した。この時、旧ソビエト連邦へ進出するアイデアが話し合われたと言う。 じつは、1976年に準備が始まった旧ソビエト連邦のモスクワにマクドナルド・レストランの第一号店がオープンしたのは、14年後の1990年1月31日だった。 1980年のモスクワオリンピック開催に合わせ、マクドナルド・レストランをオープンさせる予定で準備が全て完了していたが、オリンピック開催の直前になってから突如オリンピック中止の事態に直面した。 それは共産圏最初のオリンピックを、旧ソビエト連蓮によるアフガニスタン侵攻に反発したアメリカや日本と西側諸国がボイコットしたため急遽オリンピック開催への参加が中止されたのだった。 すでに、マクドナルドではモスクワに食品加工工場を建設し、農業機械、灌漑設備、土壌、輸送網にも巨額な投資をしていたため甚大な損害を被った。ジョージ・コーホン自身も豪邸を手放すほどの損害を被ったのだ。
ところで、多大な損害を被ったのはジョージ・コーホンやマクドナルドだけではなかった。 じつは、1975年にジョージ・コーホンの勧めで始まった私の印刷会社にも被害が波及してしまい、これからと言う時に頓挫してしまったのだ。 日本には、「好事、魔多し」と言う言葉がある。 それまで順風満帆に発展して来た印刷会社も4年目だったが、私は先を見越し事業拡大のために場所もそれまでの10倍以上広いところに移転し、従業員や印刷機械も増やし、特に最新のカラーオフセット多色刷り印刷機を日本に発注したばかりだった。英語の印刷は勿論、ロシア語の他に日本語の印刷も順調に伸びていたため、各方面に多大な迷惑をかけてしまった。 欲が出たのがいけなかった。自分の持ってる全財産を注ぎ込み、銀行からも相当借金したのだった。 しかし、不運が重なる時は重なるもので、1979年にワイフの父親が急逝したのだ。ワイフはまだ幼い子供たち3人を連れて急きょ訪日した。しかし、持たせてやる金がなかったために、日本の兄弟と親戚には予期せぬ負担をかけてしまった。 そのために私はワイフと子供達を、日本で路頭に迷わせる結果になってしまったのだった。 マクドナルドの仕事で、ロシア語の印刷が出来無くなれば会社をたたむしかなかった。ジョージ・コーホンからは、マクドナルド本社での仕事もオファーされたがそれは断った。ジョージとは主従関係ではなく、いつまでも友情の絆で結ばれていたかったからだ。
1976年からジョージ・コーホンも14年にわたる道のりを歩み始めていた。 彼の口癖は「突き進め」だった。共産圏に事業を展開するという幾多の困難な道のりを克服し、数々のスキャンダルのトラブルをも乗り越えながら「突き進み」1990年にやっとモスクワにマクドナルド第一号店をオープンさせるという偉業を達成させたのだった。 私はモスクワオリンピックのボイコットのために、会社のパートナーたちとは共同経営を解消したり、私個人が抱えてしまった多額の借金返済とおまけに国税局からの重加算税の支払いなどの精算に約10年の年月を要した。その額は、当時家を2軒分買えるぐらいの負債だった。 いつもジョージ・コーホンから勇気を貰い、家族を犠牲にしながらも、ゼロからの出発を繰り返し馬車馬のように働きながら、10年目にしてようやく借金地獄から解放されたのだった。 私がこの困難から抜け出られたのはワイフの助けも大きかった。 日本から戻って来たら、それまで勤めていたダウンタウンで一番の老舗日本料理店の女将の仕事をすぐ退職させる予定だった。 ところが、その計画も狂ってしまい、結局65歳の定年まで20年以上もワイフを働かせてしまった。いつも演歌を歌い日本舞踊を嗜んでいるのでそれが苦労を忘れさせ、また持ちまいのワイフの底抜けに明るい性格が落ち込む私をいつも助けてくれたのだった。 幸い私はヘアースタイリングの仕事、映画やTVコマーシャルの役者と声優の仕事など、さらに趣味の釣りもビジネスに変え、オンタリオ州々政府観光局委託のメディア・ガイドの仕事などにも没頭したのだった。 ワイフからはいつも「映画の出演料はどこ?」とか「釣りのガイド料はどこ?」と聞かれても、借金返済に全額消えてしまい手元には何も残らないという有様だった。 しかし、無理をしたせいか身体を壊し、心不全になったり、おまけに持病の糖尿病が悪化して両足が壊疽になり、ドクターからは両足切断の宣告を受けてしまった。 同じ頃、ジョージ・コーホンも前立腺癌に冒されたのだった。 幸い、ジョージは2000年に癌を完治し、私も両足の壊疽も快方に向かい、重症から許容範囲内に収まり、共に病気をも克服したのだった。
ジョージ・コーホンの回顧録「To Russia with Fries」(フライドポテトを持ってロシアへ)「当時は知り合いもほとんどおらず、お金もほとんどありませんでした。当時のマクドナルドは、今日のような広く知られた名前とは程遠いものでした」と、ベストセラーとなった自伝『ロシアへフライドポテトを持って』の著書の中で、ジョージ・コーホンはカナダへの移住について書いている。 私の場合もジョージとまったく同じ境遇だった。 もし日本語訳のその本があれば是非お読みください。カナダでの「ロシア語印刷」の苦労話などもご理解いただけるかも知れない。 オリンピック・ボイコットだが、私も自分の回顧録を書くなら、その頃が人生唯一で最悪の黒歴史なのかも知れない。 私はコーホン家とは、50年以上のおつきあいをしているが、奥さんのスーザン夫人にも大変お世話になった。2人の息子さんたちは、当時小学生だったが、今は立派に成長し、長男のグレイグ・コーホンも父親譲りの実業家であり、コカ・コーラのロシアへの進出に尽力した。次男のマーク・コーホンはカナディアン・フットボール・リーグの第12代目コミッショナーを務めた。 現在、カナダのマクドナルド・レストランは1,375店舗以上を展開し、年間売上高は25億5000万ドルを超え、7万7000人以上の従業員を擁している。 ウクライナ侵攻以前のロシアには、152店舗のマクドナルドがあり、ロシア法人では1万8000人の従業員が毎日60万人のお客様にサービスを提供していたそうだ。 そして、ジョージ・コーホンが展開した日本はじめ世界のマクドナルド・レストランの店舗数、従業員数と売上高などをご想像ください。 私は今でもジョージ・コーホンと過ごした日々を懐古し、僅かでもマクドナルドのビジネスに関わることが出来たことを誇りに思っている。 マクドナルドがカナダでこれほど成功を収めた理由の一つは、ジョージ・コーホンの業績が大きいのは勿論、草の根マーケティングにあると思う。 創業当初からカナダのマクドナルドのDNAの一部となっている、店舗での誕生日パーティー(非常に成功した地域活動)、地元ラジオ局の革新的な活用、地元のキッズチームへのスポンサーシップなど、地域社会への貢献活動がブランドの成功を牽引してきたと思う。 そして、忘れてならないのはジョージ・コーホンの奉仕の精神と慈善事業だ。 その功績によりカナダ最高の勲章や数々の名誉ある勲章を受けている。
最後にどうしても一言付け加えたい事がある。それはみなさんよくご存知のマクドナルド・レストランの「M」をデザイン化したような商標(ロゴマーク)だ。 通常大企業の商標は有名なデザイナーに、莫大なデザイン料を払いデザインを依頼するのだが、皆様はご存知だろうか? マクドナルド・レストランの商標はコストが全然かかっていない。じつは、普通文房具店で誰でも買えるスタンダードなアルファベットのタイプセットで小文字のダブリュウ(w) を「逆さまにしただけ」のことだ。この事実を知っているのは、マクドナルド・レストランの印刷業務に携わったものだけの秘密かも知れない。 また、カナダ・マクドナルド・レストラン商標の真ん中に「真っ赤な楓の葉」がある。あのデザインをジョージ・コーホンに進言したのはこの私なのだ。 ジョージ・アラン・コーホンは、2023年11月23日(木)アメリカの感謝祭を祝うためトロントに集まった家族に見守られながら亡くなられた。享年84歳だった。 彼のご冥福を祈る。