お便り/3月号の未掲載分
世界は "おにぎり" ブーム
ジミー狩野(牧男)84歳 カナダ・トロント
今、海外で「おにぎり」がブームなのをご存知だろうか?ネットで調べればニューヨークのおにぎり、パリのおにぎりや世界中の「おにぎり」についての情報が沢山入手できる。日本でも「おにぎり」が進化を続けているそうだ。私の住むカナダ・トロントでも「おにぎり専門店」が急速に増えつつある。中にはベジタリアン専用のおにぎりまで売っている。以前は寿司ブームだった。和食といえば「寿司」がその代名詞だったが、最近では「おにぎり」がとって変わる勢い。
じつは、東日本大震災が発生した時、トロント宮城県人会が立ち上がり、トロントの岩手県人会、福島県人会とその他の県人会有志の皆さん数十人と一緒に「おにぎり」を作り販売しようという話が持ち上がった。その売上金を義援金として被災者の皆さんを援助しようという「おにぎり大作戦」なのだ。この「おにぎり」支援計画は、大勢の皆さんが作り手と販売する方とふた手に分かれ、作り手は大きな古い由緒あるキリスト教会の設備を借り、また売り手はトロント繁華街の大きな交差点でご婦人方が目立つように、とにかく和服姿での作戦だった。材料のお米や海苔などは参加者の皆さんが各自持ちより、また市内の日本食品店さん初め日系企業さんからも寄付をしていただいた。和服姿の売り手組は、街を歩く人たちや赤信号で止まる車一台一台に声をかけ売り歩いた。「おにぎり」は売れに売れた。翌日には地元の新聞やテレビ・ニュースでも大きく報道された。このように「おにぎり災害支援計画」は大成功に終わった。当時「おにぎり」なるものをカナダ人には珍しく知っている人たちはいなかった。しかし、トロントでは、このように路上での販売行為は市の条例違反であり取り締まりが厳しかった。事前に市の許可を取り、衛生局や警察署の許可とることが必要だった。しかし、事情を察した市当局や警察関係者が大目に見てくれたのはありがたかった。このように東日本大震災の義援金作りは大成功したのだった。これは世界で「おにぎりブーム」が始まるかなり前のことであり、私たちがトロントで「おにぎり」を作り売り出したのは12年前のことであり、もちろん私たちが最初だった。当然ながらトロントでのおにぎりブームの火付け役は私たちが元祖ではあるまいか。(この後から支援団体もおにぎりを売り始めた。)
今年は正月早々能登半島で大地震が発生した。この地震で亡くなられた方々にはご冥福をお祈りすると共に、被災者の皆様には一日でも早く立ち直ってくれるように祈る。今、トロントの支援団体が義援金集めに東奔西走している。つい先日もトロント日系文化会館でトロント新年の恒例行事「お正月会」が行われ、さまざまな行事の他にトロントの各県人会が能登半島地震の支援活動として募金箱を設置したそうだ’。宮城県人会では沢山の義援金が集まったと関係者に聞いた。ちなみに、宮城県人会のブースで陣頭指揮を取ってくれたのは宮城県石巻市長面出身のモガール・和子(高橋)さんで、この他に彼女は「着物ショー」の企画・監督も行っている。
ところで、皆さんは「おにぎり」や「おむすび」の語源をご存知だろうか?「おにぎり」とは、鬼を絶ち切るという魔除けから生まれたそうだ。また「おむすび」は言葉通り、人と人との良縁を結ぶと言うことわざがあるとある書物に書かれていた。私はこれを知るまでは、同じ食べ物なのになぜ違う呼び方があるのかがとても不思議だった。なお、日本では阪神淡路大震災以来1月17日が「おむすびの日」であることも知った。
人生は波瀾万丈
ジミー狩野(牧男)84歳 カナダ・トロント
私の両親は熱心なクリスチャンでした。将来私が牧師になるような男になれと、私の名前を「牧男」と命名したそうです。 今、カナダでは「ジミー」と呼ばれています。 じつは、羽田を発つ時に母から諭されました。 「あんだは、日本(ぬほん)でえらーぐ派手ぬすてだから、カナダさ行ったら地味になりなさいよ。」これが母の最後の言葉になってしまいました。 それで私は決心したのです。「カナダへ行ったら地味になろう!」要するに地味(ジミ)すなわち「ジミー」になったというわけです。 現在、私はトロントの日系老齢施設「モミジ・レジデンス」に住んでおりますが、ある集まりの席で新しく入居された方々とお話をする機会がありました。 そして、一人一人自己紹介をすることになったのです。 順番が回って来て、私の正面に座っておられたSさんという御夫人が自己紹介をされたのですが、その方のお話を聞いた途端に、私はびっくり仰天してしまいました。 その方はこう話されたのです。「私は最後の氷川丸で横浜からカナダへやって参りました。」 なんという偶然でしょう。
じつは、私はその氷川丸に乗船し、その船の中で働く予定だったからです。 忘れかけていた私の苦い過去がまざまざとよみがえってきました。 その過去とは、生まれて初めて経験したまるで奈落の底につき落とされたような挫折感と、私には耐えられないような試練だったからです。 日本郵船の氷川丸は、当時横浜とシアトル・バンクーバーの間を往復する太平洋航路の定期貨客船で、北米に向かう時は乗船客がいるのですが、横浜に帰って来る時は乗船客がいないため貨物船となって帰ってくるのです。 現在、その氷川丸は横浜山下公園の埠頭に係留されております。 ご存知の方も多いはずです。 氷川丸で働きたいかと言ってくれたのは、時折帰省してくる横浜の叔父でした。当時横浜税関の税関長をしていた叔父は船舶会社には大変に顔が利く人だったのです。 その叔父の伝手で、氷川丸で見習い船員として働けるようにと話を進めてもらいました。 しかし、その道に進むために私には難しい難関が待ち構えていたのです。 浮ついた話だと頑固一徹な私の親父が許すはずはありません。私はどうしてもその難関を突破しなければ前に進めないのです。 私は密かに家出するチャンスを狙っていました。 その計画に猛反対だった私の親父は激怒し、私はとうとう勘当される破目になってしまったのです。 宮城県の片田舎から横浜まで一人で出て来てしまいました。 ところで、加美町と名前が変わったそうですが、私が生まれたのは宮城県加美郡中新田町です。小学1年生から5年生までは皆さんもよくご存知かと思いますが、元宮城県知事の本間俊太郎君と同じクラスで机を並べて勉強していました。それから小学6年生から大崎市(元古川)へ移り、古川中学へ進み古川高校へと進学したのです。 しかし、中学2年生の時に担任の先生に聞いた及甚こと及川甚三郎の話(密航船・水安丸)やアラスカのモーゼことフランク・安田(アラスカ物語)の話に感化され、海外渡航の夢を追い続けるようになってしまったのです。 私に試練が訪れたのは、1958年の時で私は19歳になろうとしていました。 それは氷川丸に乗船する計画が直前になって突然キャンセルされてしまったのです。
じつは、その氷川丸は最後の航海を終え、横浜に戻って来たら老朽化のため廃船となってスクラップになる運命だったのです。 乗船をキャンセルされた氷川丸こそ、それからの私の運命を大きく狂わせる結果になったのです。 準備のために費やした3年間を私は完全に棒に振ってしまいました。 じつは、氷川丸の中で、北米に向かうときは理容師で、帰る時はコックや雑用係として働く予定だったのです。 理容師の国家試験にもパスし理容師として働く傍ら、夜は調理師になるため休みの日も返上し一生懸命働いていたのです。 そして、その後の人生が大きく狂ってしまうのです。 波乱含みの展開が待っていようとは、その時はまだ知る由もありませんでした。 目の前が真っ暗になるとはこのことで、悲観的になった私は自暴自棄になってしまいました。 氷川丸へ乗船することを友人知人に話してしまった手前彼らに合わせる顔がありません。 挙げ句の果てに私は密航まで企て、アメリカの豪華客船プレジデント・ウイルソン号に潜り込んだのです。 プレジデント・ウイルソン号は、当時太平洋航路の大型定期旅客船で岡晴夫の唄った「憧れのハワイ航路」のモデルにもなった客船です。 乗船客に紛れ込んでまんまと乗船した私は一目散に目の前にあったエレベータに飛び乗り、最上階にある救命ボートに隠れたのです。 エレベーターに飛び乗ってみるとプレジデント・ウイルソン号は下から上まで14階もあり、その巨大さに圧倒されるばかりでした。 しかし、翌朝私は隠れているところを簡単に発見され、密航は失敗に終わってしまったのです。 現在でも大型客船やクルーズ船は、出航した直後に必ず「避難訓練」があるそうですが、そのことを迂闊にも調べていなかったのです。 隠れていた救命ボートは一番最初に発見される場所だったのです。
ところで、その時のプレジデント・ウイルソン号はスケジュールが変更になっており北米ではなく香港行きの船だったのです。 神戸で降ろされた私は、取り調べを受けた後2人の刑事に付き添われ横浜の関内暑に護送され逆戻りしたのです。 世話してくれた叔父の顔にも泥を塗る結果となり、この事件で親兄弟や親戚中からも完全に見放され、とうとう放浪生活を余儀なくされてしまったのです。 それまでは将来を楽しみに仕事も真面目に頑張って来ましたが、警察沙汰になってもう誰も相手にはしてくれません。 たとえ少年院送りは免れたとしても、もう世間には顔向けが出来なくなっていたのです。 それからは親兄弟、親戚、従兄弟たち、幼馴染などみんなから姿を隠すようにしての生活が続きました。 かといってまともな会社に就職など出来ません。それで、夜の仕事を転々としていたのです。 クラブやキャバレーのボーイ、バーテンダー、喫茶店のウエーターなどを経験し、最後にはラテンバンドのバンドマスター(バンマス)C.I.さんに拾われ、将来はビッグ・ラテンバンドのコンガドラマーになろうとバンドボーイなども経験しました。 とにかく芸能界は派手好きで、Wプロダクションに所属して日夜の区別なく、世間から見れば浮かれた生活を送る結果となっていました。 これは余談ですが・・・ 私の後にラテンバンドに入って来た後輩がおります。「カズ坊」と呼ばれていましたが、それが皆さんもよく知っている「森進一」だったのです。 彼の本名は「森田一寛」と言って、あのダミ声のカズ坊が歌手になったことには驚きました。 また、当時人気絶頂だったフランク永井さんに同じ劇場の楽屋で何度かお会いしたこともあります。 古川高校の先輩だった彼に挨拶に行ったのが最初でした。
しかし、不摂生で不規則な夜の仕事を続けた結果身体を壊してしまい、私は芸能生活を続けることが出来なくなってしまったのです。 数年後、私は病み上がりの身体で結婚をしました。 演歌歌手を目指し九州から上京してきた彼女(現在のワイフ)と意気投合しての結婚だったのです。 ワイフは周りのものたちから「かの君と結婚したら3ヶ月と持たないゾ。」と、冷やかされました。 なにしろ私は痩せて骨と皮ばかりになっていたからです。 結婚後、私は以前お世話になったラテンバンドのバンマスC.I.さんに、ワイフを紹介がてら挨拶に行った時のことですが、私はバンマスに「彼女は演歌が得意です。」と言ったところ、バンマスは早速唄ってみなさいとワイフに言ったのです。 ところが、ワイフは初めて目の当たりにした18人編成のビッグ・ラテンバンド T.P.を前に怖気ついて尻込みをしてしまったのです。 その時、歌っていればワイフの人生も今頃違っていたかも・・・ その後、新婚生活を送るようになってまもなく、ワイフは肋膜炎という大病に冒され2年近くの闘病生活を送る結果となったのです。 しかし運命の悪戯とでも申しましょうか、1965年にカナダ連邦政府は日本からの移民政策を発表したのです。 私は忘れかけていた海外渡航の夢が一気に再燃してしまったのでした。 このお話しの続きは、「みやぎシルバーネット」2023年11月号「怪我の功名」をどうぞご覧ください。 トロントへ来てからワイフは怖気付くどころか、今でも元気にステージで演歌を現役で歌っております。
ちなみに、コロナのために中断してしまった「トロント紅白歌合戦」ですが、ワイフは1977年に始まって以来毎回出場し、現在最多出場歌手として頑張っています。 ところで、私は今年の12月で85歳になります。 カナダで生活するようになってから、もう55年目になりました。 そして、今年は結婚して六十年目で、ダイヤモンド婚を迎えます。 この話の続きはいずれ折を見てご披露したいと思います。(了)
穏やかな余命 介護支援に感謝
水戸秀雄 89歳 青葉区栗生
1月 16日の河北新報[声の交差点]に掲載された医師中川国利先生の[穏やかな余命 介護で支援]を読んで、感慨を新たにしました。掲載された記事の内容と私の妻の死が余りにも酷似していたからです。私と妻は老齢のため一昨年8月仙台市青葉区の介護老人保健施設(G)に2人で入所し介護支援を受けておりました。一昨年10月下旬でした、妻に強い嘔吐症状が出て市内の総合病院に緊急入院しました。精密検査の結果泌尿器科などに異常が見つかり治療を受けほぼ完治しましたが、老衰現象が出ているとのことでした。当時コロナ禍がピークで病院では家族でも面会が出来ませんでした。家族の面会が1部可能であつた施設(G)で入所者に対する医師の診療や看取りが可能とのことで一昨年12月下旬に病院を退院して施設に再入所しました。週1回看護師、2週1回医師の訪問診療と施設職員による終日の生活全般の介護支援を受けました。昨年11月下旬に主治医より余命1ヶ月の宣告を受けて、2人の希望で自然死(老衰死)をお願いし絶飲食などの処置も受けました。医師の宣告とおり12月下旬に妻は94歳の長寿を全うし、何の苦しみもなく穏やかな表情で私の手を握りしめ介護支援の皆様に感謝の微笑みを浮かべながら天国に旅立ってくれました。