お便り/5月号の未掲載分

未知の国カナダへ

ジミー狩野(牧男)84歳  カナダ・トロント

「昭和44年4月4日」は、我々夫婦が未知の国カナダへ向かって日本を離れた忘れられない日だ。 カナダへ行くのがどうしても嫌だと泣いて嫌がるワイフを騙しながらの旅立ちだった。
 話しは55年前に遡る。 その日、羽田国際空港特別室には約100名ぐらい我々を見送る人たちが集まっていた。 それはまるで戦地に赴く兵士を送り出すような万歳三唱で見送られ水盃での別れだった。 そこに集まった人たちは、私の職場の同僚や友人たちがいた。ワイフの従姉妹たちや親戚たちも大勢来ていた。私の身内は、おふくろがただ一人見送りにはるばる宮城県の田舎から駆けつけてくれたのだった。ただ、親父や兄弟と親戚中からは絶縁されての寂しい別れだった。 しかし、私の心にはもう二度と戻らないであろう祖国との決別の日でもあった。
 カナダ太平洋航空DC-8-61型機は当時の花形機、その頃、世界最大の飛行機といわれ250以上の座席数があった。またそのスマートな姿は「空の貴婦人」とも呼ばれていた。 当時、まだ成田空港は開港しておらず、ジャンボ機だって飛んでない。1ドルが360円の時代だった。 じつは、1964年に日本人の海外渡航が戦後初めて自由化され、観光目的でのパスポート発行が可能になった。だが簡単に海外旅行など出来る時代ではなかった。 機上の人となった私たちはその大きな機体と長い通路に驚いた。 周りの乗客は全部中国人ばかりで、日本人乗客は我々だけだった。 この飛行機は香港から羽田経由で途中アンカレッジで給油し、バンクーバーへ向かうという。 ワイフは座席に着くなり強い酒を何杯もお代わりし酔い止めの薬と疲れの影響が出て瞬く間に熟睡してしまった。 私は黄昏迫る関東平野だろうか西の空を小さな窓から眺めていた。 この飛行機は北上を続けているらしい。 なぜなら、いつまでも日本と平行に飛行を続け、夕闇に点滅する街の灯りが後ろへうしろへと小さくなって遠ざかって行く。 私には逃避行のような旅だが、16年間も描き続けてきた海外渡航の夢が正夢となって実現した瞬間だった。やっと日本を離れたことに安堵感があった。 日本の灯りが見えなくなるまで、いつまでもいつまでも私は眼下を眺めていた。 止めどなく惜別の涙が私の頬を濡らしていた。そして、目を瞑ると走馬灯のように様々な思い出が蘇ってくるのだった。
  海外渡航の夢が忘れられず、16歳で親父に勘当されたこと。氷川丸で働く予定がドタキャンされたこと。自暴自棄になり外国航路の客船で密航に失敗したこと。危うく少年院送りになったこと。警察沙汰を起こし狩野家と親戚中から縁を切られてしまったこと。路頭に迷いながら放蕩生活を続けたことなどが断片的に脳裏に浮かんでくる。いろんな思い出が雑然と頭の中を交差していた。 ウトウトしていたが、時差の関係で数時間後にはもう夜が明け明るくなっていた。 アナウンスでは、アンカレッジ空港に給油のため立ち寄るという。 アラスカと聞いて胸が高鳴った。アラスカのモーゼと称えられた安田フランク恭輔さんの「アラスカ物語」に感化されたのが14歳の時だ。感慨無量だった。 やがて雪で真っ白なロッキー山脈を眺めながら飛行機は一路バンクーバーへと向かって南下していた。 隣の席のワイフは給油で立ち寄ったことも知らずにまだ熟睡している。 バンクーバーが近づくにつれ私の心に焦りがあった。英会話がまったく出来ないからだ。 だが、もう後戻りは出来ない、当たって砕けろと開き直った気持ちになっていた。
 とうとうカナダに上陸した。 雲一つない青空のバンクーバーは春の陽気が清々しく、暖かく我々を迎え入れてくれた。 その陽気にワイフはすっかりご満悦だ。なんと変わり身の早いオンナだろう。 羽田の税関では行きたくないと号泣していたくせに・・・ ワイフは熟睡したままアンカレッジで給油したことなど無頓着だった。 バンクーバーでは仲間達が我々を出迎えてくれた。 到着後トロントへの乗り継ぎのフライトがなくその日はバンクーバー泊まりだ。 インターネットなどなく、カナダの情報は何一つ入手出来ない困難な時代だった。 唯一横浜市磯子にある外務省管轄の海外移住センターが助けてくれた。 我々カナダへ向かう約30名のカナダ移住研修生たち7期生は、その移住センターに一ヶ月間寝泊まりし同じ釜の飯を食いながらの研修生活だった。 英会話からカナダのマナー、カナダ生活に必要な知識、さらにカナダで生活する上での模擬訓練をしてくれた。 それにはカナダ大使館とカナダ太平洋航空の東京支社も協力してくれた。 英会話の講師は、横須賀駐在米軍アメリカ人の奥さんたちが毎日交代でやって来た。 移住センター内は日本語厳禁だ。我々夫婦だけがンプンカンプン。2人とも英語は全く出来ないからだ。研修期間はまるで泥縄方式だった。 同じ研修生で、先にバンクーバーに到着していた仲間たちがバンクーバーの空港まで出迎えに来てくれていたので助かった。
 しかし、アレンジしてくれたホテルが酷かった。まるで西部劇映画に出てくるような一階がバーとサロン風のレストランで、2階と3階がホテルになっている。トイレとシャワールームは共同だった。 このホテルは、その昔、戦前の日本人移民たちも利用したという由緒ある古いホテルだった。 翌朝、階下のレストランで朝食を食べたのだが、メニューを持って来られても英語が読めないのだ。種類の多いメニューの中から適当に選んだ。 運ばれて来た料理を見て唖然とした。ローストされた鶏が丸ごと一羽分テーブルに運ばれて来たではないか! 移住センターの研修ではうるさいほど叩き込まれた。それは、「レストランで食事したら必ずティップスが必要」ということだ。見慣れないカナダのお札の中から数字の少ないのを適当にテーブルに置いていた。 「このマネーは 何?」と聞かれ、片言の英語で日本式に「チップ、チップ」と連呼した。ところが持って来られたのは山盛りの「ポテトチップス」だった。これには閉口した。「ティップス」と言うのが正しい発音なのだ。 これがカナダに来て最初に受けた洗礼だった。
  我々は早朝の便でバンクーバーを発ちトロントに向かい飛び立った。 今なら日本とトロントの間をたった14時間で行き来出来るのだが、当時、直行便などなくカナダ国内線はまだ旧式な小型の飛行機で、途中5ヶ所も経由しながらまる一日かけて飛び石伝いにトロントへ向かうという。 まるで地の果てに行くようだった。カナダ国内には5時間半の時差があり、その広大なカナダの大地に圧倒された。 時差の関係でバンクーバーを早朝に出ても、トロントに到着した頃には夕方になっていた。 このように日本を離れてから飛行時間だけでも合計72時間を要したのだった。 初めて見るトロントは鉛色した雲が低くたちこみ、そこはまだ冬の最中だった。とても寒かったのを覚えている。バンクーバーの景色とは違い、トロントには山がなくまるで360度見渡せるような平坦で広大なカナダ大陸に相応しい眺めだった。 これから始まるであろうカナダでの暮らしでは、骨を埋める覚悟が必要だった。

「未知の国カナダへ」(この項つづく)

追記; カナダでの生活をスタートさせるために、私の最大の欠点は英語の出来ないことだった。だが、逆転の発想で、私の特技は「日本語を話す」ことに気がついた。カナダ人には絶対出来ないことだ。それで結局見つけた仕事が「カナダ国営ラジオ放送」の日本向け短波放送のアナウンサーの仕事だった。それを皮切りに5年後には「トロント日本語ラジオ放送」を開設し初代のプロデゥーサー兼アナウンサーとなった。この後も波瀾万丈な面白い私の思い出話しがたくさんあります。少しづつご披露したいと思います。