お便り/4月号の未掲載分
「旅路の果てに」第二部
(2024年5月号「未知の国カナダへ」より続く)
ジミー狩野(牧男)85歳 カナダ・トロント
大手サロンを離れることは、私にとって勇気ある決断で、とても大きなチャレンジだった。しかし、その決断が想像もしなかった「転機」を呼び寄せた。その転機は思いがけない形で訪れることになった。ある日、突然私の元を訪れたピエール・バートン氏。彼の訪問は、私の人生航路を大きく変えることになる。嵐の前の静けさだった。
「ピエール・バートン」。その名前は、カナダに住む者ならば知らぬ者とていない。彼はテレビで毎日顔を見せ、新聞にはコラムを連載し、ラジオからは彼の声が聞こえない日はない。まさにカナダの顔とでも言うべき存在だった。(惜しくも2004年11月30日に、彼は心不全で他界した。享年84歳)当時、テレビをつければ彼の知的な語り口に魅了され、新聞を開けば彼の深く洞察に満ちたコラムが目に飛び込む。ラジオからは、歴史の真実を紐解く彼の声が、日々の生活に彩りを与えていた。歴史家としての顔をもつ彼は、50冊を超える著書を世に送り出し、そのどれもがベストセラーを記録している。彼の言葉は、常に人々の心を揺さぶり、思考を深めさせていた。
ピエール・バートン氏が、私の常連客になったのは、日本流のシャンプーだけのためではなかった。それは、彼が率いるプロダクションから、私のもとへ一通の連絡が届いた。「専属契約を結びたい・・・」その言葉は、まるで夢か幻のように私の胸に響いた。信じられない思いで、私はその手紙を何度もなんども読み返していた。 専属契約は、私にとってまさに生活の安泰を約束する輝かしい印だった。しかし、私の心はどこか落ち着かなかった。それまでの私は、誰かに縛られることを嫌う「一匹狼」だった。自分の思うままに、自由に生きてきた日々。しかし、皮肉なことに、その頃から私の周りには、ジョージ・コーホン氏を始めとする、政治家や経済界の素晴らしい人々との繋がりができ始めていた。それはまるで、未来への夢と希望が、鮮やかに色づき始めた頃だった。
ピエール・バートン氏のプロダクションとの、専属契約内容には、深い意味が込められていた。それは魅惑的な専属契約内容だった。彼が、出演するラジオとテレビ番組は、すべて彼のプロダクションが制作し、ラジオ・テレビ局は、彼らが手がけた番組をただ放送と放映するのみだった。それはまるで、彼自身の世界を彼のプロダクションが創造し、その中で彼は輝くように活躍していた。そして、私は、テレビ局にある専用のメーキャップ室兼整髪室で、私独自のテクニックで彼のヘアースタイルを創り上げる内容だった。また、彼のテレビ番組には、伝説のカンフーアクション・スター「ブルース・リー」を始め、多くの個性豊かなゲストや共演者たちが集まってきた。彼らが織りなすパフォーマンスは、視聴者を魅了し、番組は常に活気に満ち溢れていた。共演者の中には、主役級の俳優や有名歌手などが多数出演していた。代表的な番組では、「ピエール・バートン・ショー」(インタビュー番組)や「ザ・フロントページ・チャレンジ」(私は誰でしょう的な番組)など、すべて30数年間続くロングランが「CBC 」(カナダ国営ラジオ・テレビ放送)や他の地方局より、カナダ全土で放送と放映されていた。そして、私に提示された専属契約とは、ピエール・バートン氏を始め彼ら出演者の整髪をテレビ出演用に毎回セットする重要な仕事が任務なのだ。彼は講演会や地方ロケ、写真撮影や執筆など多岐に亘り活躍し、私には、地方ロケなどにも同行する内容も含まれていた。
しかし、実際、専属契約の話が持ち上がった時、私の心は激しく揺れ動いていた。私はこれを、断腸の思いで「契約を断る決断をした」のだった。そして、私は、ピエール・バートン氏と向き合っていた。これからの契約について、私の偽りのない気持ちを彼に伝えた。仕事はほぼ契約通りに全うすること。その代わり、私と私の家族の身元保証人になって欲しいと、私は必死に懇願したのだった。バートン氏は私の目を見つめ、静かに頷いた。「OK ジミー、あなたの誠意、しかと受け止めた。」と、言ったような気がし(!)、凍てついた私の心に温かい光を灯してくれた。彼はその約束を快く引き受けてくれたのだ。そして、驚くべきことに、その約束は35年間もの長きにわたり守られ続けたのだった。彼がこの世を去る、その日まで。彼の優しさと信頼は、私の人生を、そして、私の家族の人生をも支え続けてくれたのだった。
じつは、カナダへ移住して3年ぐらい経った頃、ミスター・マックこと親友のジョージ・コーホン氏(カナダ・マクドナルド・レストランの社長で、当時彼はアメリカ国籍だった。)と一緒にカナダ市民になるための申請書を裁判所へ提出することになった。しかし、カナダ市民権を取得するには裁判所に出頭し、裁判長との口頭試問があり、それにパスし、カナダ国民としての宣誓をしなければ市民権は与えられないのだ。私は、ピエール・バートン氏の推薦状と身元保証人の手紙を添えて、市民権取得の申請を行なっていた。当日になって、ジョージ・コーホン氏は私の先に口頭試問に望んだ。しかし、私の番になって裁判長は「ミスターカノ、あなたはピエール・バートンの身元保障状があるから、口頭試問は必要ない。」と、改めてピエール・バートンの名前の威力に驚いた。私は、ジョージ、コーホン氏と同じ日にカナダ国籍を手に入れ、彼の家族共々一緒に市民権を入手したのだった。
ピエール・バートン氏が、私の仕事に惚れたのには理由があった。大手ユニセックス・サロンでの、シャンプーボーイ時代に、たまたま彼の専属ヘアースタイリストが病気で仕事が出来ず、私がシャンプーをし、そのまま専属の彼のピンチヒッターで、私が代わりに整髪してあげた。私はいつもシャンプーしながら彼の整髪の仕方や欠点などすべて知り尽くしていた。当時、日本では「日本以外にはない!」日本独自に開発された男性用の「アイパー」(アイロン・パーマ)や男性専用の極細のアイロンなどがあり、私はそれらを酷使してテレビ出演用にセットしてあげたのだった。彼はその私の仕事が気に入り、今回の「専属契約」の話になったのだった。
ところで、ピエール・バートン氏の頭頂部は少々寂しく、日本では「夜店のステッキ」などと揶揄されることがある。現代風に言えば「バーコード・ヘアー」と呼ばれる。このスタイルは、頭頂部の髪の無い部分を覆い隠そうと、左側を2対8に分け、横の残った毛を極端に長くし、左側から右側へ、そして、横から流してくるのが特徴だ。(注:彼の個性を際立たせるため、私は彼のもみあげを長めに残し、両側、耳の上の髪の根元をしっかりと固定させ、横の毛を橋桁のように高くセットし、左から流れる髪が地肌に触れないよう、独自のヘアスタイルを創り上げたのだ。それはすぐに彼の代名詞となり、生涯彼を飾り続けた。私はこの技を『ブリッジ工法』と名付けた。それは、誰にも真似出来ない、私だけの技術の結晶だった。)
とにかく、テレビ局の照明は容赦なく、どんなに完璧にセットした髪型も、すぐに汗で崩れてしまうのが彼の長年の悩みだった。テレビ撮影現場の照明は、番組の雰囲気を決定づける重要な要素であり、セットや出演者を明るく照らすだけでなく、感情や時間の経過を表現するためにも使われる。しかし、その強力な光は、汗をかきやすくし、髪型を維持するのを難しくする。髪は水分に触れると「水素結合」が切れ、セットが崩れやすくなるため、雨で濡れたり、とくに、汗は「髪型の大敵」なのだ。私は、カナダへ来る前は、東京のきらびやかな銀座で、毎日現れる水商売の男性客相手に、髪のセットを手掛けてきた。また、時には銀座界隈のテレビ局という、特別な舞台で輝く芸能関係の出演者たちのヘアーセットも担当してきた。まさに私は、彼らの輝きを演出し、彼らを陰で支える存在だったのだ。
「ジミーカノはピエール・バートンの専属ヘアースタイリストだ。」いつの頃からか、そんな噂が巷を駆け巡るようになっていた。それはまるで、私の存在を特別なものとして語り継ぐ、ささやかな物語のようだった。そんなある日、私の元に相談で訪れたのは、以前ダウンタウンでお世話になった大手ユニセックス・サロンのオーナーだった。彼の目には、確かな期待と、微かな探究心が宿っているようだった。だが、彼の突然の申し出に、私は驚きを隠せなかった。ヨークビル街のまさか中心で「純日本風ヘアーサロン」を開くと言う大胆な計画。そして、そのマネージャーとして私を望む彼の真剣な眼差しに、私の心臓が高鳴った。まさか、こんな形で人生の次の章が始まるとは、夢にも思っていなかったからだ。(つづく)
